なんというか「おもしれーWebサイト」みたいなものをつくっていきたい。

『情報具術をめぐる旅 〜知的生産の技術からセカンドブレインまで』

面白そうなタイトルが閃いた。

他には、『情報具術の冒険』とか探検とか探究とか、あるいは、『情報具術のつくり方』とかも考えられる。

数年前ならこういうときは、まず目次案関数が動いていたが、今はタイトル案関数が起動するようになっている。

多様な能力

1人でコツコツ頑張る能力は大切だけど、そればかりが評価されてしまうと、助けが必要なときにうまくそれを求められなくなるんじゃないだろうか。

ドアの使い方

混乱とは理解しようとするときに生まれる。ディスターブされるのはドアを開いているときだけだ。

風景をただ眺めるように眺めれば、そうした事態は生じないだろうが、でもそれが最適解なのかはわからない。ドアを作らなければ、外に出ることも叶わないわけだし。

極端な解が溢れる世界では、「ドアなんていらない。すべてオープンだ」という解と「ドアなんていらない。壁だけがあればいい」という解に振れがち。でも、人はときにドアを閉じ、鍵をかけ、部屋の中に閉じこもることも必要。同じようにドアを開け、誰かを招き入れることも必要。

ドアとは調節機であり、その使い方をどうするのかを考えた方がいいのだが、「ドアの是非」みたいなところに行ってしまう。

人を風景として見られるようになれば、生きることで起こる苦悩はきっと激減するだろう。その意味ではそれは楽園なのかもしれない。でも、その苦悩の回避は別の苦痛を連れてきそうな気もする。

現状認識を確認する

見えている風景というか現状認識が異なれば、そこからの一手の模索も大きく異なる。そこをすり合わせないとお互いに「はあ?」で止まったままになるだろう。

近づこうとすることを繰り返す

何かしらの形で意義や価値がある仕事をしようとすること。完全にコントロールすることは叶わないと理解しつつも、少しだけでもそこに近づこうとすること。そういうことの繰り返ししかないんじゃないかと思う。

だから、「はいこうすれば成果がすぐに出ます」と謳うノウハウは、何か根本的な観点がズレているように感じる。

怖いなと思うのは、そうした試行や一種の賭けみたいなものをバイパスできるという観点が醸成されてしまうことで、自分が知らないノウハウさえあればまるっと問題解決するという視点にはまりこんでしまうこと。

ノウハウはめちゃくちゃ詳しいけども、自分の目の前にある仕事のことはぜんぜんわかっていない状態はなかなかつらいものがある。

その人がノウハウが好きで好きで仕方ないならば別に問題はない。多分その人にとっての「自分の仕事」がそれなのだろう。でも、そうでないならノウハウマニアを増やしても特にハッピーではない。

前にも書いたけど、ノウハウ書を読むためのノウハウ、メタノウハウ書が必要だと思う。

自分の人生を生きる

「自分の仕事をする」の背景には「自分の人生を生きる」がある。

はやく進むための道具

たぶん僕たちははやく進むための道具ばかり与えられているのだろう。

ギアを落とす

思考が空回りしているときは、一旦ギアを一速に落としたいのだけども、それには意識的な操作(なんなら儀式)が必要なのだろう。

思考の変速機が必要。

損をして得を取れ

「損をして得を取れ」というが、損をしたら自動的に得になるわけではないし、得しようと思って「損」を選んでいるなら、結局得を目指しているわけでズレてしまう。

書こうとすると書けなくなる

書こう、書こうとすれば余計に書けなくなる。つぶやくように、あるいは体を動かすように書けばすっと書ける。ただしそれは体を動かしたような文章にはなる。

ジャンクインフォ

ジャンクフードが肥満をもたらすとしたら、ジャンクインフォは何をもたらすだろうか。

欺瞞は不満を呼び、不満は不要な自慢を生むのではないか。

簡単にする、ということ

状況が難しいことを前提とした上で、分割的・分析的にわかりやすく伝えようとすることと、状況が簡単だから解法も簡単だと伝えることは、似て非なるものだろう。

答え至上主義においては、そうした前提は「余計なこと」になってしまう。でも、まさに答えだけならAIに聞けばいいということになってきて、どれくらいそうした前提を押さえているのかの方が重要になりつつあるのではないか。

熟達者が見えなくなるもの

熟達すると人は意識しなくてもその行為が行えるようになる。そこに微細が調整が働いていても当人が気づくことはない。だから、熟達者は初心者の戸惑いがよくわからず、「こうすればいい」と端的なメッセージを送ろうとしてしまう。

愚かさを学ぶこと

愚かさを学ぶことは大切なのだろう。愚かさに学ぶのではなく、愚かさを学ぶこと。

〜について書く

本は何かについて書かれたものだが、そうして書かれたことについて何かを書くことができる。当たり前と言えば当たり前だが、ちょっと不思議な感覚もある。

ともあれ、「〜について」という再帰性の種が言語表現の根っこにあるのだろう。

センスケア

「考え方のケア」「価値観のケア」といったものの可能性を考えてみる。

人文的なものの重要性

人間を情報処理装置に寄せれば寄せるほど、無用なものになっていくだろう。

人類中心主義の超克として機械中心主義が出てくるならもうそれはネタだろう。

すげーありきたりなことをいうけども、まさに人文的なものがクリティカルになってきているなと感じる。

じっくり読むことの欠如

本を嘲笑っている人は、まさに本をじっくり読むことの欠如が何をもたらすのかを示している。

人生訓の使い方

先達が残した人生訓は、そのまま教条にするのではなく、自分の気持ちを切り替えたいときに、心の声にカウンターを当てる感じで借り受けるくらいがよいのだろう。

欲望とのつき合い方

健全な欲望を持ち、それを有限化すること。先回りしてそれを抑圧するのではなく、そんなものはないのだと否定するのでもなく、そこにあることを受け入れたうえで限定すること。

成長に必要なもの

自分を部分的に否定できないと変化的成長は望めない。しかし、自分を部分的に否定するためには、心理的に安定している必要がある。

タスクリストと休むこと

あまりにタスクリストを完璧に整備すると、「休む」ということができなくなる。

ノウハウについて

自分の経験を抽出してノウハウを生成する行為は、ペーパーフィルターでコーヒーを淹れるようなものだろう。そうしないと、ろくに飲めたものにはならないが、かといってフィルターが細かすぎると大切な要素も削ぎ落としてしまう。

具体的すぎるノウハウは応用が利かず使い物にならないが、具体性とつながりがなさすぎるノウハウはそもそも使えない。

ノウハウにおいて、細かいルールにこだわりすぎるのは全体的に益がない。問題は何が細かくて、何がそうでないのかが明示されないことがある点だ。

具体的なノウハウは有用として、一方で「人生観」とか「仕事観」みたいなものをまず育んでいくことも大切ではないかな。

ただし、そうしたものは直接学ぶというよりも日常の所作を通して学ぶものだろうし、そこにはノウハウの習得も関わっている。

ノウハウ書へのまなざし

小説から読書の道に入ったので「情報源」としての本、という捉え方は自分には薄いなと感じた。

だから僕のノウハウ書への眼差しも基本的には小説へのそれと同じ。

内容の有用性や新規性の評価は二の次で、まず読み物とし面白いかどうか。それが真っ先に気にかかる。

なぜなら人間を変容させるのは情報ではなく物語だから。

大きなゲーム

均一化に押し込められるほど、小さな差異に執着するようになる。つまり、「大きなゲーム」ができなくなる。

『忙しい人のためのポピュリズム入門』

『忙しい人のためのポピュリズム入門』という本があったらちょっと楽しそう。

ポピュリズムとは何なのか、どうすればそこに「至れる」のかを示す。

休憩していない休憩

作業自体は休んでいるけど認知資源はまったく回復しいない「休憩」時間の使い方というのがあるな。

「もっと読んで」の倫理性

すでに人生の時間をすべて埋めるほどの無料のコンテンツがあり、優良なものに限ったとしてもそれは変わらない。そんな中で「もっと読んで」とアテンションを集めることは結構虚しくなりつつある。

意味は生成し、流転する

意味はたしかに借り受けるものだが、裏返せばそれは貸し出せるものでもある。

意味があるのかが気になって仕方がない

「それやって意味があるんですか?」という問いは、自身の意味生成能力が阻害されているか、その能力に自信がないことの裏返しの表明なのかもしれない。

逆に、「意味中毒」というようなことも考えられる。