chatGPTで仕事はなくなるのか

効率的なツールが生まれたら仕事が奪われる的な話があるが、だったらなぜそもそもブルシットジョブ的なものがあったのかという話を加味して考える必要があるのではないか。

もちろん、“炭坑はいずれ閉鎖される"という話は前提として、その上で「仕事」の中にある複雑な力学を見たほうがいい、という話です。

やや皮肉めいたことをいうと、日本企業でDXシフトしていなかったからこそ、chatGPTによって労働者の仕事が保持される、みたいなことはあるかもしれない。

人間は学習する

最近のAIが自然言語で入力できるからというだけでは弱い、という意見はそこにある現象を捉えられていない。彼らのレスポンスが自然言語であり、しかも極めて理知的である、という点が重要なのだ。なぜなら、そのような環境にあって人は学ぶことができるからだ。

愚かな“ユーザー”ではなく人の知性が発揮されるようになる。その潜在的な可能性は現状のリテラシーでは測ることができない。

言葉によるコミュニケーションを始める

chatGPTの使い方とは、コンテキストを深く共有した状態での言語による意思疎通というところから離れて、基本的な言語によるコミュニケーションを始める、ということなのだろう。

質問しあえる関係の価値

予言的に言っておくと、人は他人に質問することで知識を得ると同時に、他人から質問されることで自分の知識を意識できるようになるので、今後は質問しあえる良好な人間関係が希少価値になってくるだろう。

ネイチャーとカルチャー

デジタルがネイチャーになればなるほど、非ネイチャーなものが注目されるのでは。原始時代で「森って都市に比べて素晴らしいよね」とは話されないのと同じで。

ネイチャーって、そういうことですよね。背景化してしまう。注目されているなら、それまだカルチャーなのでは。

ホワイトワーカーと知識労働者

ホワイトワーカーだけど知識労働者ではない、ということがあるわけだ。

で、そういう場合には「知的生産の技術」のニーズはほとんどないことになる。

AIが壊してしまうかもしれないもの

自分の仕事にある種の自負があるときに、chatGPTのようなものを導入するとそこにある物語性が壊れてしまう、ということはあるだろう。その自負が有用なものかどうかはさておき。

質問する能力

誰に、何を、どのように尋ねるのか。なかなかクリティカルな能力ではある。

疑問を吟味する

思考のポイントは自分が今何について考えているのかをクリアにすることだろう。でないと「思い」はさまざまに浮かぶがとりまとまりがなくなる。

つまり、答えを吟味する前に疑問を吟味する。あるいは答えから疑問を整え直す。

権力の均衡

三権分立で示されているように調和とは権力の停止ではなくその均衡である。うまくいっている独裁的なものがあるならばトップの内部あるいはその周辺に均衡があるのだろう。にもかかわらず、私たちはその均衡を崩そうとしてしまう。言うまでもなくその方が「話が早い」からだ。

これは個人の内部においても言える。たとえば、感情だけを優先しようとする。あるいは、理性/意思を絶対視し生物的・動物的な要請を蔑ろにする。そこには葛藤はなく、必然的に倫理もない。でもってそのつけは必ずどこかで支払うことになるのだろう。

方法の提示法

何かしらの方法があるにして、それを押しつけるのは自主性の剥奪になるだろうが、かといってその方法を教えて提案することまでが抑制される必要もないだろう。

「かくあるべし」と「かくある」の差異

「かくあるべし」という規範は、「かくあれ」という創造者の意図とイコールではない、といつことを受け入れる。

読むの効能

段階的に疑問が明瞭に解消されていく文章を読んでいると「頭の中のしわが伸びている」感覚がある。脳のironing。

欲望を学ぶ

そもそも人はどうやって学んでいるのか。

他者との関わりが薄れている中で私たちは何を欲望することを学ぶのだろうか。

突き詰めると、欲望のインフルエンスなのだろう。たとえば学者はその学問の面白さを語るわけだが結局それは「面白さ」という情報を伝えているのではなく、1人の人間がそこまで心を掴まれているという一つの物語を提示しているのだと捉えられる。

小説は“説明”をしないのと同じで「面白い」と説明しただけでは効果はない。逆に、ぜんぜん伝わらない言葉の羅列であってもその熱量と雰囲気だけで伝わることもある。

僕の中で西田幾多郎はそういう感じの受容になっている。

幸福のチューンナップ

社会や時代の流れの大きな方向に自分の幸福をチューンするのはきわめてナチュラルな出来事だろう。ただし適切かどうかはわからない。

ツールは慣れが一番

ツールについては、まず慣れがある。単に慣れていないだけで評価が落ちる。

事前の分類事項

事前に分類事項を作るのは、変化しない情報体を扱うならだいたいうまくいくし、しゅっとまとまる。ただし知識はそうはいかない。

他者と対等の立場で仕事をする

序列が充満している社会では、「他者と対等の立場で仕事をする」というのが案外パラダイムの外にあるのかもしれない。

序列があると命令系統が整って効率的になるわけだが、逆に言えば対等の立場で仕事をするとお互いに自分の意見を持っていてそこで摩擦が起きる。起きることが当然という前提になる。つまり摩擦があること=不和とはならない。違う意見があって当然で、じゃあそこからどうする、という話が起点。

その「どうする」の解消は手間も時間も礼儀も必要だから、ぜんぜん「効率的」ではないしだから適応的に不利だとは思うけれども、その解消の中でジンテーゼ的に新しいものが生まれてきたり、自分の盲点に気づけたりもする。コストを払うに値する価値があるわけだ。

どちらが上か(あるいはどちらが正しいか)というジャッジを先に持ってくるのはこの「どうする」解消の手間の回避であるとも言えるだろう。上だったら(あるいは正しかったら)相手の意見は却下できるわけだから。

最低限の礼儀を持って「いや、それはちょっと違うんじゃないですかね」とお互いに言い合える空気は、いわゆる心理的安全性なわけだが、それが生産性を高めること以上に人間としての尊厳がちょっと関わっている気がする。

僕は、「上」から命令されるのと同じくらい「下」で唯々諾々されるのも苦手で、それはやっぱり対等な感覚がないからだろう。ちなみにこれは「偉い」とか「凄い」とか「優れている」という価値判断を退けるものではなく、「あの人は偉いけど、人間としては対等」くらいの感覚。

知性とは動きである

知性とは動きである。だからこそ動いていることではなく、どう動くかが重要になる。合わせて、どう動きを止めるのかも大切になる。

物理学風に言えば、意識的な加速度の変化。それが知恵の発露であろう。

階級闘争としての自己啓発

インテリが認めがたいからこそ"ひろゆき"的なものが支持されているのだ、というのは一つ思う。ただここからどう論を深めればいいのかはわからない。

「hogehoge」によって稼ぐ人になる、というのはネオリベ的でもあるが、階級闘争のアレンジとしても捉えられる(そういう物語性がある)。

サロン的なものの人気もそうした構図の方が捉えやすいだろう。

ただここまで考えても、この構図をどうひっくり返していけるのかが検討もつかない。

メタ・ライフハックに向けて

ハックはたしかに有用で、

  1. だからそこ問題がある
  2. しかしそれ単体では足りない

という二つの視点が同時に成立する。

全体がぼやける感じ

個々の文章には問題を感じないし、それをまとめている章にも破綻はない。しかし全体を通してみると印象がぼんやりしてくる本というのがあるのだが、何が起因しているのだろうか。

これは逆もあって、たくさん本を読んでいるしそれぞれに読み間違いがあるわけでもないが、全体としてみたときにその人の知の構成がどうなっているのかよくわからん、みたいなこともある

現代における啓蒙

情報を吟味する人が増えたら困るビジネスが多いなら、情報を吟味する人は自然には増えていかないだろう。

だからそれが「啓蒙」ということなのだろう。リベラルアーツも、職能ではないという点で非ビジネス的なものだと言える。

多様性のエクササイズ

モンテーニュは旅に出て普段とは違う風景に触れることで多様性受容の枠組みを広げること生きることのエクササイズと位置づけていたようだが、フィルターバブルはまったくその逆と言えるだろう。