以下の記事を読みました。

【雑記】ただ心穏やかに過ごしたいと願うことが何だかとても贅沢なことの様に感じる | Hacks for Creative Life!

もしかしてそれはすごく難しいことなのかもしれません。

ここで述べられていることはごく「平凡」なことです。少なくともノーベル賞を取るような、あるいはなんとか長者番付に載るような「偉業」に比べればたいしたことではないでしょう。

ここで「いや、そういう当たり前の日々を維持していくことことが難しく大切なのだ」という話もできるでしょうし、実際それは日本国民全員の生活を調査してみれば難しいことが明らかになるテーマだとは思います。つまり、かつては平凡だったことも、社会環境の変化によってぜんぜん「平凡」ではなくなってきつつある、という社会問題的な構えも取れるのです。そもそもその「かつては平凡だった」という認識すら歪んでいる可能性があります。誰しもが生きる上で悩みを抱え、望まない仕事をし、家族との調和に苦心しながら、なんやかんやで生き延びる、ということがマジョリティーだったかもしれません。

が、ここでそういう認識の話をしても仕方がありませんし、社会問題に切り込みたいわけでもありません。ベックさんのニュースレターを拝見したところ思ったことがあるのです。

0159 : 修羅の国で修行を積んでいると思うことにした話 - by 北真也(beck)

たとえば今この記事を読んでいる方が日本で働いているとして、上のような状況はどんな風に感じられるでしょうか。当たり前、それともブラック? どういう統計が出るかはわかりませんが、私のごくストレートな感想だと「かなり過酷だ」というものです。

で、過酷な環境で働いている人がいて、その人が「ただ心穏やかに普通に働」くことができるかといえば、それはかなり難しいのではないでしょうか。たとえばそこが弾丸が飛び交う戦場だとして、その中にいて「ただ心穏やかに普通に働」くことはほとんど不可能でしょう。というか、もしそれができてしまうならその人はもうヤバイ状態になってしまっているとすら言えるかもしれません。

もちろん、労働環境はリアルな戦場とイコールではないわけですが、過酷な環境において為せる個人の努力の限界みたいなものはあるのではないでしょうか。で、心理的安全性の確立みたいなものも、その限界に入ってくる気がします。

というかそもそも心理的安全性を確立するのは、労働者を抱える会社側の仕事であり、責務です。もちろん、リーダー的な存在の人はそのチーム内の心理的安全性を確立することが役割となりますが、そのリーダーそのものの心理的安全性は、それよりも上の階層の仕事であり責務です。自分の心理的安全性を自分で確立しなければならないとしたら、もうその状況こそが過酷だと言えるかもしれません。

もちろん、個人の努力によってある程度状況が緩和されることはあるでしょう。しかし、どう考えても将棋の駒に将棋盤そのものを動かす力はありません。というか、それを請うてくるとしたらその将棋盤はかなりヤバイと言えます。

おそらくですが、ベックさんとまったく同じポジションにいる人はあまり多くなく、ベックさんの部下的な人か上司的な人が多いのだと推測します。だから、ベックさん以外の人がそれなりに働けていたとしても、それがそのままベックさんに適用できるとは限りません。むしろ一番「圧」がかかるポジションにいる可能性すらあります。

もしそうした状況にいるならば、折れないでいるだけでかなりの力を必要とするでしょうから、「ただ心穏やかに普通に働」くことは相当に難しいでしょう。逆に言えば、「ただ心穏やかに普通に働」くことが簡単なのは、そうした圧がまったくかかっていない状態に限られるのではないかと思うわけです。

もちろん、「だからこうせよ」ということをこの記事は主張したいわけではありません。ただ、外側(ステークホルダー外)から見ると、だいぶ過酷な環境で頑張って働いておられるので、それ以上の「頑張り」はかなりキツイだろうなと思った次第です。たぶん、ただそこで働いているだけでHPとMPがぐんぐん減っていく──そんな環境なのではないかと想像します。

その意味で「修羅の国」にいるという認識はわりとまっとうなのでしょう。あとはその国がベックさんにとっての"戦場"に値するものなのかどうか、という点だけです。