長い文と共に

逆に言うと、人を短い文の環境に置いておけば、二項対立空間に閉じ込めておける、となる。もしそういう風潮があるとすれば、長い文と共にあることはそのレジスタンスになるだろう。

AとBを二項対立させてどっちを取るかという判断は、短い文で言える。どちらかに一方的に与することなく、その相互依存性を語ろうとする脱構築的思考は、必然的に文が長くなる。つまり、長い文を展開できなければ、脱構築的思考はできない。 https://twitter.com/masayachiba/status/1616272221890293760

とはいえ、長い文があればそれでよい、というのは結局二項対立でしかなく(しかも典型的なそれだ)、短い文と長い文のそれぞれを踏まえて自分のシステムに配置していく必要があるのだろう。

マッサージ的言説

マッサージ的言説というのがあって、いわゆる「耳が痛い」話を自ら聞きにいくことが相当する。

はっきり決めろという圧力

『現代思想入門』に優しさを感じる人が多いと聞くが、「白か黒かはっきり決めなければならない」という圧力に参っている人が多いということなのかもしれない。たとえば「自分の有り様」みたいなものはそうした圧力でひしゃげてしまうだろうし。

なんというか、マッチョとは違う形の強さが求められている気がする。

インラインなアウトライナー

妙な言い方になるが、アウトライナーは常にインラインである。それがメリットではあるし、そうでない場合もある。

無理な基準

たとえば料理店を開くとして、すべてのメニューを自分の創作料理にしようとするなら途方にくれるだろう。毎日違うメニューにしようとするのも同様だ。

そういう無理さはイメージしやすいが、たとえば執筆活動においてそれと同じような高い「基準」を自らに規定してしまうことがある。

書き出しの難しさ

書き出し(導入部分)が定型の文章はすごく書きやすい。逆に言えば、そのデザインで悩むことは多い。そこが門であり接面であるからだろう。

枠組みの可能性

それを説明するための枠組みを自分かが知らないだけという可能性と、そもそもそんな枠組みなど成立しないという可能性の両方をカゴに入れておくこと。

とにかく書いてしまう

何かしらの原稿を書き始めようしたとする。そのとき、「さて、ご存知のように」という文が頭に浮かんできたとする。そこで、「いやこの原稿で“さて”という表現は不釣り合いだぞ」みたいなことを検討し始めるとドツボにハマる。少なくとも、その執筆は苦痛に満ちたものになるだろう。

そういうときはともかく「さて、」と書き出してしまうことだ。それを後で使うかもしれないし、使わないかもしれないが、それすらも考えずにとにかく書いてしまう。それでリズムに乗っていく。

有限性を持つ

アウトライナーの階層をあまり深くしすぎないというのと同じで、ある有限性の中で情報を扱う視点があった方がいい。でないと、まったく手に負えなくなってくる。

習作の難しさ

以前どこかで話しましたが、インターネットによって即パブリッシングが可能になった結果、「習作」という中間的・緩衝地帯的な制作がやりにくくなってしまっているように感じます。

孔のあいた自己

「自分だけの満足」からの逸脱。孔のあいた自己。

「自己満足からスタートしたはずなのに」という目的性からの逸脱。自分のためであれば他のためではなく、他のためであれば自分のためではない、という二項対立のその先で考えること。

システムとアクター

システム的規定によってその内側のアクターは影響を受ける。「効率」だけを考えて作られるシステムに問題が生じやすいのもそのためだろう。そこでは「価値」の概念が捨象されている。

「作業」は効率的にはなったが、価値が致命的に損なわれる、ということが起こりうる。仕事を作業の量でした捉えていないと起こりがち。

二つの疑問の際

「なぜそれをするのか」と「何のためにそれをするのか」は似ているけど、まったく同じ感じでもない。

ノードに属性を設定する

Drummerの個々のノードにattributeを設定できる考え方はとても面白いので、自分のツールでも使ってみたい。

発見主義(構築主義)

「何がそこにあるのか」という本質主義的な見方ではなく、「何をそこに見出すのか」という見方を取りたい。

セルフ・コミュニケーション

セルフ・コミュニケーション特有の難しさ、というものがあるのかもしれない。

解像度が高いことがすなわち善とは限らない

「顕微鏡を覗いたまま歩くのは危険」というフレーズを思いついた。“望遠鏡"に差し替えてもいい。

解像度が高いことがすなわち善とは限らないことはデフォルトの認識でそれでもなお解像度が高い(低い)という言葉を使うことにあえて躊躇しない人がこの言葉は使えばいいのであって、解像度が高い、解像度を高めることを至上命題的に絶対的善とする方向に引っ張られる人は最初から使わない方がいい。 https://twitter.com/tobatoppers/status/1614765545316036608

キャリアアップ

個人的に「キャリアアップ」という言葉の感じがあまり好かない。

自主的であるかのような「目標」の弊害

組織や共同体に属する人々を「自主的」に動員するために設定される“目標”は、たしかに嫌われるだろう。それが「目標」全体について否定的な感触を生んでいるのではないか。しかし、目標は自分を方向づけるために使えるものである。その道具をすべてゴミ箱に入れる必要はない。

“目標”を別の言葉に言い換えることで癒着した語感から遠ざかることもできるが、根本的な価値観がは保存されてしまう。『勉強の哲学』が忌避されがちな「勉強」という言葉を真正面から使ったように、目標との新しい関係構築を「目標」という言葉を使って行うこともできるだろう。

倉下風に言えば、強い目標と弱い目標(フラジャイルな目標)があり、後者の目標はなかなか楽しいものである。そういう話ができると思う。

程度の哲学

上のような「強い/弱い」の捉え方は、何とまとめられるだろうか。程度の哲学?

どこに保存するのか問題

デジタルツールで情報を保存するとき、「どこにそれを置いておくのか」という問題が発生する。たいてい保存するアプリを選べば、そのアプリが代わりに「配置」を担当してくれるのでその問題に直面せずには済んでいる。

雑のサイクル

雑にまとめた情報を、雑に把握し、雑に実践して、その結果が雑にまとめて発信される。

何を「自分」だとするか

資本主義的広告の炎で煽られた部分だけを「自分」だと思っているなら、多くのことがいびつになっていく。

ヒエラルキーでない階層

複数の層を持つが、ヒエラルキーではないものを想像すること。

仮説と検証

どんな仮説と検証を繰り返したら「自分のことを信じてはいけない」というかなり粗い結論に達したのかが気になりますね。

「とにかく自分を信じてがんばりました」よりも「仮説と検証を繰り返したことで最適解が得られました」の方が再現性がありそうに思えるからかな メディアは「再現性というものがあったらいいな」というみんなの期待に引っ張られる(or利用している) ここは再現性のない世界線なのだと信じるしかない https://twitter.com/shigotano/status/1614184319299338243

個人的に「pdcaやっていればうまくいく」的な話は眉唾だと思っているが、それと並行して「そもそもpdcaが適切にできているのか」も気になる。あとメタ的な適用の必要性も。

まあ、そんな繊細な議論が期待されているわけではないのだろう。

それはそれとして、ノウハウに過剰な期待があって、その失望感が常に揺蕩っている側面もあるのだろう。単に「車の運転中も、たまにバックミラーも注意しておきましょう」くらいの話だけのことが、レースで優勝する方法みたいに受け取られる。

スレッタの母

スレッタの母が、エアリアルをあたかも自分の子どもであるかのような言葉遣いをしていて、スレッタと同じように大切にしているというファーストインプレッションだったが、物語が進むうちにむしろスレッタを自分が作ったモビルスーツと同じように捉えているのではないかという恐怖が喚起されている。