ハードボイルド風格言

「タフであるとは、ラフであることだ」

革命と革命的瞬間

革命がなくても革命的瞬間は起こりうるだろう。むしろそれを革命の結果だと取り違えないようにすること。

知的生産ではない知的生産の技術

個人的に「知的生産の技術」には興味があるのだが、「知的生産」を志しているかというといささか心許ない感じがするので、つい「知的生産的行為」などと的まみれな表現を使ってしまう。

何として興味があるのか

同じ分野に興味があっても、「成功法」として興味があるのか、内的な充実感を高める手段として興味があるかで評価の体系は変わってくるだろう。

箱の中の人間

たぶん、人間も巨大なスキナーボックスに入れられたらラットと似た反応を示すのだろう。

ここから言えることは二つある。一つは、現実の人間は箱には入っていないのでより複雑な反応をするということ。もう一つは、単純な反応を求める主体は人間を擬似的な箱の中に閉じ込めようとすること。

雑と仮

キーワードは「雑と仮」。

さらにアップデートするなら、「雑に作り、仮に決める。そして改める」。

言うまでもなく、一連のこの過程それ自体がその実例になっている。

「雑」や「仮」は、「やみくも」とは違う。もちろん「やみくろ」でもない。

大きくつくるために、まず小さくつくる

より大きく作っていくために、まずそれまでよりも小さく作る。

ミニマムな知的生産ツールセット

・メモ/ノートを取ること ・項目を集めていくこと ・メモ/ノート/項目についてのメモ/ノートを取ること

たぶんこれがミニマムな知的生産ツールセット。

「ついての」ができないと広がりがない。

自分のやり方

周りの物書きさんを見渡しても、それぞれ違ったやり方で「仕事」をし、「経営」を成り立たせておられる。これは、「自分なりの方法でよいのだ」という励みになると共に、「自分なりのやり方を立たないと」という教訓でもある。

「役に立たない」の種類

「役に立たない」と呼ばれるものでも、その内実はいくつかのパターンを持つだろう。ある目的のために作られその用を足していないもの、その時点ではまだ適切な目的が見つかっていないもの、一般的に認識されている目的と用途が不一致なもの。1を捨てるのは結構だが2と3はどうか。

最大の問題はその3つが簡易に峻別できるかどうかだろう。

思想の使い方

思想というのは偉い人が言ってたからその通りに生きます、といった「使い方」をするものではないだろう。

生きているものをつくる

たとえば、「ブランド」をつくるという行為は、一度作ったらしまいというわけにはいかない。維持し、ときには変革が必要となる。つまりブランドは「生きている」。

パノプティコンとテレビ

見られる装置としてのパノプティコン。見る装置としてのテレビ。二つは裏返しでつながっている。

感情と理性

感情がもたらす行動の予測不能性は、理性から見ればノイズでしかないが、一つ上の視点から見ればその存在がシステムの安定に貢献していることがある。

考えを自らの語りに結びつける

「リベラルな考え」を教えたら万事解決とはいかないだろう。そういうアプリのインストール的な解決では、アイデンティティの構成は変わらない。すると、それを脅かす事態を退けてしまう。

むしろ、アイデンティティの構成を変える方向が必要なのだろう。自らについての語りを変えること。ナラティブの変容。

直接化する世界

同じような感覚を受けています。「直接化する世界」。

https://twitter.com/masayachiba/status/1627517326760480768

迂回がない、遅延がない、バッファがない。それはまた、隠喩がない、多義性がないということ。

世界の直接化が進む中では、段取りを考えたり次に必要な行為をブレイクダウンしたりすることもできなくなっていくだろう。提示されたものが「すべて」になるからだ。

長期的な視点は「直接」なものではない。まわりまわって達成されるものも、意外な贈り物も「直接」ではない。行為の多義性が剥奪されると、選択肢がなくなっていく。

「具体化する」という行為は一見直接に向かうようだが、その実「具体的でないものを具体化する」という段階がある。それは、「別の具体化があり得る」という想像力の余白があることを示している。

習わないこと

たぶんすごく基本的なことを僕たちは習わないのだろう。GTDのナチュラルプランニング的なこともその一つ。

つくることの思想

「つくる」ことや「放つこと」が急激な勢いで簡単になったおかげで、「つくる」ことの思想が文化的に十分錬成されていない状況があるのかもしれない。

それに加えて、日本だと「(おまえのものを)つくるな」的な抑圧もあるから余計になのかもしれない

ムラ社会において個人的な活動をすることそれ自体が叛逆的であるわけだから。

一億総哲学者

ところで、「一億総クリエーター」だと単純に好意的に受け取られるだろうし、「一億総コメンテーター」なら否定的に受け取られそうだけども、「一億総哲学者」ならどうだろうか。

ショートショートネタ

「不平による不満を解消する? だったらそれを感じる脳の機能を消してしまいましょう」

#ディストピアショートショート

プロとアマと趣味

シームレスやモードレスで言えば、プロとアマの境目が見えなくなりつつあるのは良い面も多いが、趣味の領域にプロの心構えが無自覚に入り込んでしまう恐れはあるだろう。

以前の「習作不在」とも関係している。

「うまくみえないもの」を無くす

目を凝らせば、それまでよりもよく見えるようになる。それでも、うまく見えないものは残る。目を閉じてしまえば、うまく見えないもの」は完全になくなる。

絵を描く

よくアウトロー系作品で「この絵を描いたんは誰や?」といったセリフがあるが、プラン的なものが「絵」として表現されるのは興味深い。

わかっていないセンサー

「知識量を増やす」ことよりも、「わかっていないセンサーを鍛える」ことの方が大切なのではないか。あ、自分はこれわかっていないな、と気がつける感覚。

失敗と目標

今話題の「失敗」についての話は、「目標」の扱い方についての話の裏面であるように感じる。

めんどうな人

何かを思いついたらまっさきにその反証を探すくせがあるので、他の人の発言でも同じことをするのだけども、だいたい「めんどくさい人」認定を得られる。

情報技術以前の姿勢

自分が「知っている」ことが正しいのかを調べる訓練、というのは情報技術以前の何かが必要なのだろう。

そこにある出来事

たとえば「PV10」とかだったら塵のように思えるけど、「10人の人が読んでくれた」なら感激する出来事だろう。測定とそのために抽象化された数字というのは現実を隠蔽してしまう。

渾沌から取り出す

僕たちの内側は渾沌である。か弱い認知の力から見れば手に負えないもので満ち溢れている。少し先は闇で覆われ、嵐の音だけが聞こえてくる。

僕たちが何かを表そうとするとき、認知の手に負えるようにそれを変換する。そうすることで、受け取ってもらえるようになるからだ。秩序とはインターフェースである。

からもし、言い表そうとしてうまく秩序が作れなくても、それは誠実にそれが行われた証である。渾沌を奥に手を伸ばそうとすればするほど秩序に変換するのは難しくなる。それを避ければ、明るい場所だけで仕事ができるだろう。そうすれば賢くすら見えるかもしれない。

言い表すことは簡単なことではない。単に「簡単なことにしてしまう」というすり替えがあるにすぎない。

受け取ることも同様だ。秩序に変換されたものを自らの渾沌に投げ込まないならそれはとても簡単だろう。それこそ、いくらでも続けられるくらいに。

楽しみを増やす

楽しみを増やすこと、楽しめることを増やすこと。与えられるのではない形で。

ゲームや遊び

僕が「ゲーム」とか「遊び」と表現するとき、十全な真剣さと距離のある観察の両方が含まれている。

プリミティブな書くことの意味

書き手がいて、十全に力を注いで書く。読み手が読み、何かを感じる。これがプリミティブでラディカルな「意味」だろう。それ以外は舞台の装飾にすぎないはず。

つまり、この前提があった上で、何かの枠組みで「遊ぶ」のは良いと思う。

漏意

SNSやニュースアプリによって、栓が閉まり切っていない水道のように注意が漏れ出ていくような状況。気がつかないくらい僅かに、しかし積分すればはっきりと。

心のたいそう

「頭の体操」があるのだから「心の整体」があってもいいだろう。でもって占い的なものはそういう役割なのかもしれない。

二階だけを取り出しても

何か基本的なことがあってそれをやっていると起こる問題についてのノウハウは、それだけを取り出しても「?」となるだろう。土台がないわけだから。

たとえば、速読はある程度本が読めることができてその上で、という技術だ。それなしに速読しようとしても上滑りするだけだろう。

利己的ですらない

利他的でもなければ、利己的ですらもない行為がある。

不完全な名付け

ノウハウにおける名付けは、先に実践があり後からその類似性を拾い上げることで行われる。だからその名付けはいつでも「少し違う」という感覚が残る。定義された概念から生成されたものではなく、家族的類似性が見出されたものに過ぎないからだ。