PKMと研究

PKMと呼ばれているものは「個人的研究」と同じ営みの別称なのか、それとも異なる営みなのか。

プログラミング実況中継

最近のメルマガのRSPは、「プログラミング実況中継」というか「3分間プログラミング」とか何かそういう感じになっている気がする。

知性と礼儀と品

知性と評される何かと、礼儀や品はあまり関係がないのだろうか。

中途半端を突き詰める

「中途半端を突き詰める」とどうなるのだろうか。完璧な中途半端? それとも中途半端が瓦解して別の何かが生まれてくる?

脱成長という認知的不協和の解消

資本主義的なものへの批判としての「成長」を捨てようという言説。たぶんイデオロギーですらない気がする。たとえは、もはや「成長」が望めないのにそれが是だとされていたら、認知的不協和の解消として何が生成されるか、といった簡単で考えられる。

政治感覚と一体感

「他者」がいれば意見の完全な一致は望めない。そこで「政治」が要請される。逆に言えば、「政治」が言及されると、ある種の一体感が棄損される。そこにあったハリボテの幻想が壊される。

ある種の団体が、国の「政治」についてたいそうなことをいいながら、自分たちの内部をまったく制動できないのも、そこで要請されるはずの「政治」をみてみぬふりしているからだろう。

語りとデータベース

データベース的ものに格納すると、情報取扱いはすごく便利になるのだけども、そこではどうしても項目ベースになってしまう。言い換えれば、語りが消失する。それをどうにかしたい。

まず語りがあり、そこからデータが抽出される。そういう構造がよいのだろうか。

渾沌とするもの、汝の名は人間

「倉下忠憲のカオスマップ」をもし描いたとしたら言葉通りカオスになるだろうし、矛盾も多数含まれるだろう。

人間の計画のテキトーさ

chatGPTがテキトーなことを述べることがあるわけだが、人間が立てる計画もだいたい似たレベルだと思う。

頭を「整理」する

日常的にいろいろ思いつく人ほど、ちょこちょこノートで考えを整理した方がよいですよ。でないと、封筒たちが爆発している郵便受けみたいになります。

意味の多重性

何かが持つ意味は常に二重の(ないしは多重の)ものになる。一つの側面からだけでは捕まえきれない。

中二病で解消する

人に仕事を教えるときに、その人のためには良くないことだと分かりつつも細かいことまでいちいち手出ししたくなったときは、左腕を押さえて「くそっ、静まれ俺の手よっ」と中二病を発揮させて処理するとよろしいかと。

知識無双と無力感

この世界の「わからなさ」とそのことについての驚嘆(wonder)がないままに知識を収集すると、俺ツエーがそりゃできあがりますわな。

それ自身は別によいのだけども(よいのだろうか)、俺ツエーはずなのに世間から認められていないこの状況に中指を立てる、的なルサンチマンが育つのではないかな、という気はする。

役に立たないの多重性

実用的な「役に立たない」がある。

ゼロからは作らない

さまざな場面において「ゼロからつくる」という感覚は負荷を高めすぎてしまう。

滑らかなコミュニケーションが見逃すもの

深い部分を避けておけば、コミュニケーションは"なめらかに"なる。一方で、お互いの根っこの部分が見えなくなる。そのことは、より致命的な問題を引き起こすだろう。

セグメンテーションと部族意識

セグメンテーションと僕たちの部族意識はひどく相性がよい。そして、一つ上の視点に上がるのを阻止してくる。

主体性が持つ問題

「主体的」を「主権的」と読み替えれば、「主体性」が持つ問題がくっきり見えてくるだろう。

ひとりぼっちの知的生産

知的生産の技能って自分一人だけが高くてもたぶんあんまり意味がない。

誘い待ち

自分から挑戦にコミットせず、「拾ってもらう」ことを期待するだけであれば、「挑戦に失敗する」という事態を回避しつつ栄光へのチケットを握っていられる。心理的には。

現実的には、こじらせるだけだろう。

脳という意味器官

「なぜ自分だけが生き残ったのか」のような深刻な問いが「たまたま」という答えで解消できないのは、脳の"意味器官"に対する大いなる離反だからだろう。

人間が認識できるもの以上の(つまり超越論的な)意味を措置するのは、一つの方策だろう。また、「意味なんかないんだ」というのも、一つの意味の措置ではある。

アドバイスの「使い方」

自分がアドバイスからどんな影響を受けているのかという視点さえ持てるなら、現代ほど有用なアドバイスを見つけられる時代はないだろう。

テキストエディタは場所の「飛躍」が難しい

テキストエディタは、だいたい普通に使っていて問題はないけど、たまに書いた行の右下直後とか、すごーい下の方に書きたくなるときがあって、その差異は空白と改行でなんとかやりくりしないといけない。

好きと嫌い

「好き」という感情と「嫌い」という感情は対称なのか非対称なのか。

間違った場所を覗いてしまう感覚

「フォロー中」ではなく「オススメ」のタイムラインを開いてしまうと、カラオケボックスで間違った部屋の扉を開けてしまったような気持ちになる。

精神論とは何か

そういえばノウハウ話で出てくる「精神論」という言葉の意味もそんなにわかっていない気がする。

辞書では spiritualism、 idealism、psychology

SFネタ

一つずつWebサービスが死んでいくSF小説、というのを思いついた。

他人の目が気になる

たとえば「他人の目が気になる」というのも、具体的な人がいてその人がどのような感じ方をしているのかに興味を持っている場合と、自分の規範性をイマジナリーな他者の視線として自分に当てはめている場合があるだろう。

コミットメントとデタッチメント

「コミット・デタッチメント」と「デタッチ・コミットメント」。関与の一環としてのデタッチメントと、「関与」を装うデタッチメント。

二種類の「自分自身」について考えること

自分自身について考えることと、「自分自身」について考えること。

まずつくること

まずつくる。非効率であろうが、不恰好であろうが、洗練されていなかろうが、まずつくる。その後で、立ち現れてきたさまざまなことをケアする。そういう順番。

ノウハウは、実践の後から。自分が作ったものを目の前にして、そこから立ち上がる具体的な問題と対峙する。そうしないと、「完璧なものを作るために完璧なノウハウ求める」という際限ない状態にはまってしまう。有限化が必要だ。

その上、ノウハウの収集を先に進めるほど自分がつくるものを低く評価してしまい、つくることが進まなくなるという弊害もありうる。言い換えれば、心が"批評家"になってしまう。あるいは、ノウハウが構築する規範性に押しつぶされてつくる手が止まってしまう。

ともかくえいやとつくってしまう。何か技術を学んだらやっぱりえいやと試してしまう。頭だけを先行させすぎず、常に体(経験)を付随させる。その距離感のデザインが、超ノウハウ社会では大切になるのだろう。

別の言い方をすると、自分はうまくつくれないという居心地の悪さを、実践的練習ではなくノウハウの収集で解消しようとすると、だいたい逆の結果になる。最悪つくることができなくなる。それは寂しいことだ。

おそらくだが、うまくなっている人は途中途中で「うまくないもの」をつくっている。そういうステップは存外に外からは見えにくいかもしれない。

もしノウハウを溜め込んでしまっているなら、それは「批評家」の帽子をかぶったペルソナに預けるようにして、つくり手のペルソナとは分けるようにした方がいい。「これはこれ、それはそれ」と切り分けるようにつとめる。

そして願わくば、熟練の批評家が荒削りな新人の良いところを丁寧に掘り下げるような気持ちで自分のつくったものを見つめられるようになりたい。

「まず、手を動かす訓練をする。頭を動かすのはその後からでもいい」

ボードゲームアイデア

マッドマックスの世界観をベースにしたボードゲーム、というアイデアだけ降ってきた。中身はぜんぜんわからないがすごく面白そうだ。

検討抜きで信じてよいか

何か画期的なものが生まれたら、いっさいの検討なしに提示された情報を信じて良い、なんてことがありえるだろうか。でないとしたら、あとは程度の問題だろう。

本の書き方のアイデア

ミステリーで、最後まで読み終えたら最初から読み返したくなる作品があるが、ノウハウ本でそれをやってみたい。

認めるのが難しいもの

自分の弱さや愚かさを認めるのも難しいが、穢れを認めることはもっと難しいのだろう。

2023年上半期の倉下のテーマ

2023年上半期のテーマは、期せずして「リバイバル」になりそう。

連合ブログ

「連合ブログ」、というのは可能だろうか。共著者によって運営されている、という意味ではなく。

思考におけるメタファ

思考におけるメタファは、命綱のようなものだ。可動範囲を確実に狭めるが、それがなければ転落したときに落ち続けてしまう。よすがなき転落。

ノウハウ・ビジネスの問題点

ノウハウ・ビジネスしている人が、“差別化"のために用いているレトリックが、問題全体の構図を捉えにくくしている側面があるだろう。

そのノウハウが機能するかどうか以前に、「そこにどんな問題を見出しているのか」という観点があってより重要なのはそちらの方。たとえ自分にとって役立たないノウハウであっても、そのノウハウを説明してる本から得られることは多い。それは問題を眺める視点が拝借できるから。

普遍性と属人性

「個人的」を突き詰めた先にある「普遍性」と、そうはならない「属人性」。

僕たちが失うもの

何もかもがシームレスになることで、僕たちはモードを失ってしまう。何もかもが均質化することで、僕たちはスライルを失ってしまう。何もかもがあらかじめ用意されることで、僕たちはヴォイスを失ってしまう。

「0か1か」だけでは無理が出ること

「0か1か」という処理の仕方はだいたいにおいて便利だけども、「責任」とか「正しさ」みたいなややこしい概念を扱うときにはそのマインドセットでは不具合が多い。落ち着いて考え、トレードオフやパラメータといったものを検討する必要がある。

問題は、どの領域が簡略化でよく、どの領域がそうでないか、という判断はおおむね後者の領域にあるということ。よって後者の主導権を失っていると、すべての物事が前者での対処領域になってしまう

仕事は、パソコンの前で

昔はスマートフォンでも仕事ができるとか、タブレットだけで仕事が完結するとか、そういう方向を求めていた傾向はあったが、最近は「パソコンの前でしか仕事をしない」という感じに個人的にはなってきている。

ショートショートネタ

「入るたびに変わるダンジョンゲー」というのがあるが、アクセスするたびにフォローしている人が変わるSNSはどうか。

原点

結局のところ原点に帰っていく。当初とは違ったスタイルで。

むしろそういう点を原点と呼ぶのだろう。

二つの制度の融合

自由主義に社会主義が付与されている制度だからこそ、ナッジ(リバタリアン・パターナリズム)が要請されるわけだろう。

それ自身の性質

「それって単純すぎますよね」という指摘の単純さについて。

間違えられなくなったら硬直する

「祭り上げられる」から間違えられないようになり、それが硬直化を生んでいく、という傾向はあるように思う。

問題解決のアプローチ

問題解決のアプローチにはいろいろなルートがあるが、「自分が不機嫌になる」と「どなり散らす」くらいしか所有していないのではないか、と疑ってしまう状態もある。