激しい口調からわかること

「世界の真実を知ってしまった系」は、言説の内容以前にその口調の強さや確信の度合いで感じられることが多い。

門前知

『哲学の門前』インスパイアで「門前知」みたいなことが言えるかもしれない。

バカになれば知ることが増える

アカギの「死ねば助かるのに」と同様に、「バカになれば知ることが増えるのに」ということはあるように思う。

『文章を書くこと、生きること』

『文章を書くこと、生きること』 #かーそるテーマメモ

「おっさんだって、勉強したい」

ちょっとキャッチーに言えば、「おっさんだって、勉強したい」のだ。向学心や好奇心を持っている人はたくさんいるはず。その受け皿はどうなっているのか。

それは誰の物語か

著名な人でも、その人に意見を言うと周囲の人から激しく直接攻撃されそうな感じの人とそうでない人がいる。

もちろん、その著名人が表立って攻撃を指示をしているわけではなく、それぞれが「自主的」に行われている。あたかも笑い男事件かのように。そこでおきているのは感応的な何かなのだろうし、まさにそれが怖さでもある。

でもって、感応しやすい人を集める著名人というのもいるのだろう。

「後で読む」

「後で読む」は、保存のためというより捨てるため(捨てないで捨てるため)という感覚で使うのが良さそう。

意味の量子性

文章の"意味"が、こっち側(読み手)とあっち側(書き手)のどちらにも存在しうる、という観点をとると面白いかもしれない。

「なんでもできる」は、地獄。

際限も上限も極めて小さいソフトウェア開発は、考えれば考えるほど泥沼にはまる感覚がある。それを考えれば、ほとんどコードか書けなかった頃はほどよい有限さがあった。

「なんでもできる」は、端的に言って地獄。無限の地獄。

二種類のタスク

経費とかレシートとかの処理をしていると、いかにも何かをしているのだ、という感覚が充足される。一方で、コンセプトの検討などは非常に砂上の楼閣っぽい。

「考えること」と「実行すること」

「実行」すれば達成できるタスクと、そうとは限らない課題。

タスク管理と情報整理が共に抱える"穴"であろう。「考えること」と「実行すること」がバランスよく成立している必要がある。

情報整理は情報を整理することでしかなく、タスク管理はタスクを管理することでしかない。それ以上の何かを求めるのは問題を大きく捉えすぎている(=細かく分けて考えることができていない)だろう。

Wi-Fiが問題だ

「本を捨てて」というよりも「Wi-Fiを捨てて」な現代。

回答

カードゲームやボードゲームなどで「応手」のことを「回答」と呼ぶの、面白いなと思う。

チームについて

攻殻機動隊の見過ぎなのか、チームというのは「個」の集まり(「私」の集まりではない)という感じが強いのだが、必ずしもその認識は一般的ではないのだろう。

人間が日常的に扱える階層

使いやすいように気をつけるなら、日常的なアウトラインの階層はそう深くならない、というのは示唆的であるように思う。人間は2〜3階層くらいなら「なんとか手に負える」ということではないか。

異なる役割、異なる見え方

情報の受け口としてのインボックスと、タスクを実行するためのリストが同じ見え方でよいのか、という問題があまりに軽視されている気がする。

ゴルディロックススペース

入力するものに合わせた適切なサイズ(スペース)というものがある。僕らはまだそのことを忘れてはいないだろうか。

つくることが好き

自分の活動を全体的に振り返ってみると、なんであれ何かを「つくる」ことが好きなのだなとしみじみ思う。

考えるための場所を持つ

「自分が考えていること」について考えるための場所を持つ。

ショートショートネタ

「広告やPRしか投稿できないSNS」

二つのアイデアの行き来

大きな構想だけでなく、日々の小さな着想だけでもない、その二つをいかに行き来できるか。

口から出る鏡

ある人が他の誰かの動機を想像しているとき、当人の動機のレパートリーを開陳していることになっている場合が多い。

問題解決という反応

何かしらの「問題」を目にすると、脳がナチュラルにその解決方法を探り始めてしまう。なかなか抑制が難しい。

ニュース系が抱える問題も似ているのかもしれない。一方でそれはある種の文化的雪かきなのかもしれない。

「パーソナルシンキングのススメ」

「パーソナルシンキングのススメ」という企画案。

分類は使うがメインにはしない

手持ちのノートを完全に分類することはできなくても、いくつかの分類を作っておくと役に立つことはある。ようは分類をナビゲーションのメインのキーにしなければいい。

己を知るとは他者を知ること

情報が差異から立ち上がるのであれば、己を知るとは他者を知ること。

問題解決のアプローチ

「問題を切り分ける」とか「小さく分けて進める」とか、ごく簡単なことのようでいてそれなりの訓練が必要なのだろう。はるか昔にデカルトさんも教えてくれているわけだけれども。

人類史というノート

誰かが何かについて調べ、書き残す。後になってそのことが当初想定もされなかった形で別の誰かに使われる。そのような"宛先のない"贈り物で僕らの文化は築かれている。

その意味で、僕らは人類史という一冊のノートに書き込みをしているのだ。

気軽に作り直せる

慎重に作ることよりも、気軽に作り直せることを意識したい。

思考の自由さ

他の人は自分とは違う考えや感じ方をするのかもしれない、と理解することは、間違いなく一歩「自由」になることだろう。

目的を欠いた方法の模索

目的を欠いた方法の模索は、それ自身が目的化する。これは、「方法を探すのが好き」という目的と似て非なるものである。

脱規範という規範

何かの規範が機能不全を起こしているとして、「規範を持つな、廃棄せよ」と謳うのは簡単で威勢がよいが、まさにそこに新たな規範が刷り込まれている点に無自覚なら非常によろしくない。

「革命よりもメンテナンス」。そういう言い方ができるだろう。

目的を欠いた方法の模索は

「メモ」について考えるのではなく、「メモ空間」について考える必要がある。Zettelkastenはまさにそれをやったわけだ。

これかなり画期的な発見だと思うけど、画期的過ぎて伝わらない気がする。

プログラミングと進化

プログラミングだと、途中で問題に気がついたらゼロから書き直すことができるわけだけども、生物の進化はそうではないわけで、それはそれですごいなと思う。

事前の整理

僕はガントチャートとかフローチャートを使って物事を進めて行くのはあまり好みではないが、それでも開始時点でそれらを作ることで頭と心を整理することは有益だと感じている。この二つはごく普通に分離できるはず。

言うまでもなく、これは「目標」の話と同じ。

二種類の気配り

気配りひとつとっても、「さあ、私は今あなたに気配りしていますよ! どうですか!」というオーラが漂うものと、そんな感じをまったく抱かせないものがありますね。後者は「見えない気配り」で、言語化されたものしか存在しない空間だとさらに見えにくくなります。相当のイマジネーションがないと。

避けようがないリスクとどう付きあうか

リスクとの対峙を徹底的に避けていると、避けようがないリスクに直面したときにとんでもに飛びついてしまう可能性が高い。

見える部分が限られている

コンテキストに厚みがある人ほど、SNSでは勘違いされやすい、ということはあるかもしれない。

モットー

「各々の領域で、自分の仕事をする」

知の巨人の要請

「頼れる人がいてくれないと困る」のと同じような心境で"知の巨人"が生成されるのだろう。

永久に損なわれた「かつてのTwitter」感

たぶん、TwitterっぽいSNSが生まれても、2度とあの「かつてのTwitter」感は体験できないのだろう。

波乗りがうまいと勘違いしている人

機を見るのがうまい人は当然いて、その人は波が来ればそれに乗れるだろう。波がないとどうしようもないので、波を期待する傾向が生まれるがそれはまあご愛嬌。

課題は、たまたまいた場所に良い波がやってきた人が、波乗りがうまいと勘違いしてしまうこと。これはなかなかツラいことになる。