独学してしまった人

特に悪い意味ではないが「独学してしまった人」みたいな状態はあるように思う。もちろん、僕もそこに含まれる。

市場で動いているもの、市場を動かしているもの

市場は、物や金だけが動いているわけではない。そんなことは実際の市場(いちば)にいけばすぐにわかるだけだが、記号化されるとやっぱり見えにくくなる。

ちゃんと考える

そうだよな。「自分で考える」とか以前に「ちゃんと考える」のが大切だよな。

行為と制度

一度の行為を為すことと、何かしらの制度を作ることはかなり違った重みを持つ。

にもかかわらず、僕たちはほいほいと自分ルールを制定してしまう。

ゆっくり考えを進めていく技術

物事を効率的に処理していく話はもうお腹いっぱいなので、時間をかけてゆっくり考えを進めていく話を求めている。

これは(どちらかと言えば)勉強の話ではなく、研究の話と言える。まあどっちもstudyなわけだけども。

質問の重要性

なんというか、全般的に「質問」の重要性が高まっている気がする。もちろん、昔から重要なんだけども、よりいっそうという感じで。

共有するコンテキストがまずあって、そこで行われる会話ではなく、コンテキストが違うよという前提から始まる構築的な質問。でもってそれはインターフェース・デザインでもある。

片付けることも片付ける

こころがときめかなくなったら「片付ける」という営みも片付ける。一つ上の視点で、整合性がある。

逆に言えば、「片付ける」という行為にときめきを感じる人のノウハウだったと言える。

パラダイムシフトの衝撃

自分の認識がひっくりかえるような理解の獲得は、強い地震のようなもので結構危ない。だから無意識もそれを避けようとするのだろう。ある種の自我防衛。

だからこういうのは徐々に獲得できるのがよいのだろうが、なかなかそうはうまくいかず、突然その理解を獲得してしまう。

自尊心が傷つくことは避けられる

自分がそれまで正しいと信じていた人が実はとんでもだったという事実を受け入れるときに生じるダメージの量をDとすると、そのDがあまりに大きすぎるなら、引き続き正しいとしておく、が選択されるだろう。結果さらにDが大きくなる。

手垢がつく

「コンテンツも、こね繰り回すと、手垢がつく」

忘却、混沌、終焉

忘却、混沌、終焉。刻銘、秩序、永遠。

いきり発車

「見切り発車」と似た感じで「いきり発車」もあるように思う。

知的な受け身

「知的な受け身」みたいなものがあるような気がする。

台所主体

kitchen agentic.「家事行為は主体性を育むのか」。まず批判的にこれを見た上で、別の角度から主体性を構築していく。

ほどほどの近さで

それはそれとして、優れた先達が( ネットを通じて)近くにいるというのはとてもありがたいことだ。でもその距離は近すぎてもたぶんいけない。ちょうど居心地の良い喫茶店とお客さんくらいの距離感が良い。

聞きかじりのノウハウ

経験の量と聞きかじりのノウハウの量がアンバランスだといろいろ拗らせそう。

ノウハウ的情報をかけながすのではなく、たぶん質問できた方がいいのだろう。→質問の重要性

自分のブログは待ってくれる

読書猿さんの「本は待ってくれる」をアレンジして言うと「自分のブログは待ってくれる」。いつ更新してもいいし、どれだけ更新が空いても構わない。でもってそれはノート全般に言えること。

本棚が固定化している

引っ越しや配置替えをしないと本棚の並びが長期間ディスターブされないので、これはこれで多少問題があるのかも、と感じている。

共に素晴らしい本

最初から最後まですらすら読める本も素晴らしいが、何度も立ち止まりながらそれでも最後まで読んでしまう本も素晴らしい。

ドキュメントを散らかせる

うまい表現がみつからないが、独立ウィンドウ型のエディタは「散らかす」ことができる。タブ型だとそれが難しい。

プロブロガーとは

それにしても、情報を目利きを発揮したり適切な情報を集めることを通じてアドセンスやアフィリエイトを得て生計を立てようとしているブロガーと、「ブロガーになる」ノウハウを売っているビジネスブロガーだったら、明らかに前者のほうがプロブロガーという呼称に合っていそうだが、現状は(文字数)

場所と会話

井戸端会議、床屋談義、ほかに何かそれっぽいものあるかな。

ブログやSNSだと、談義ですらない「ご意見」が開帳されますね。藁人形相手の。

贈与とお節介

あるいは、ヒーローとお節介。

用途と道具

浅く掘るならスコップがいいし、少し深めならシャベル、もっと深いならシャベルカーを持ってくる。深さによってちょうどよい道具は変わってくる。

望ましくない広告

Webサイトに広告が表示されることはぜんぜんOKなんだけど、記事の本文に入ってくるのと、関連ページリンクの中に紛れ込んでくるのは許容しがたい。

二種類の書くこと

「書く」という点で似ていることも多いが、本(文章)を書くこととプログラム(コード)を書くことには違いを感じる。その違いとはなんだろうか。両方書ける人にいろいろ聞いて回りたい。

本を書いている人でコードが書ける人と、本業でプログラムを書いている人で文章も書ける人の両方に聞いてみたい。

どう書くかを決める

難解さをただ誇っても仕方がないが、わかりやすければそれだけよいものでもないだろう。つまり、どこかで何かを決める必要がある。意思決定。

意思決定を回避していると、どちらかの極に触れることだけが指針になる。それはそれで構わないが、“方向転換"が必要なときに無理が出てくる。

リスクテイクの姿勢

「リスクテイクの姿勢」みたいなものを持っていないと、選択肢が狭まり、他人に文句を言うくらいしかなくなってくる。

問題解決の練習

当人に振りかかる前に問題が処理されていたり、あるいは一手の加工をもってその人がすでに知っている解法だけでクリアできる問題だけを選りすぐって与えられている場合、その人はメタな"問題解決"を学ぶ機会を得られなくなってしまう。

二種類の不足

原稿を描いているとき、パズルのピースが足りていないなと感じるときと、フレーム(外枠)が不自然だなと感じるときがある。

なんにせよ、部分と全体を何度も考え直す。その手間を厭う「合理化」には近寄らない。

「うまくショートカットできる道を探す」という遠回り

それはそれで楽しいだろうけれども。

日記と日誌

細かい違いだが、日記と日誌は違う。その機能や使われ方において差異がある。

似ている点にフォーカスすれぼほとんど一緒だし、違う点にフォーカスすればいろいろ違いが見えてくる。どちらが正しいのではなく、どちらも正しいのでもなく、フォーカスによって変わってくる。

「当たり前」がアップデートされ続ける

スペックの要求には際限がない。『限られた時間の使い方』にもあるが、所有するスペックが上がればそれが「当たり前」になりもの足りなくなる。加速関数の再帰的適用。

作った概念を開いておく

何かしらの概念を作り、その概念を開いておく。別の言い方をすればその概念をプログラマブルにしておく。

タスク管理の視点

タスク管理は、タスクの記録・タスクの整理・進捗の監視・フィードバックの反映あたりの要素が最低必要だろう。他にもあるかもしれないが。

別の軸で言えば、タスク管理は情報整理的な側面、経済学的な側面(資源の分配)、意思決定的な側面(価値判断)を持つだろう。

ツールと方法

カンバン指向のツールを使うことと、カンバン方式で進めていくのはイコールではない。しかし、そういう理解のスライドがよく起きている。

そうなっていた理由がある

形骸化というか、長く続いているうちに形式だけが残って、その機能が不全になっているものはたしかにある。一方で長く続いているものは、一見すると不合理なものに見えて一つ上の視点では合理的なものもある。あるトレードオフ下では最適な選択、などのように。

少なくともそれを峻別するまなざし、もっと言えば自分がそれを峻別できているのかという疑いのまなざしは持っておきたい。

何かしらの道具も、機能だけでみれば既存のものより便利なものは作れるだろう。だからといってその道具が実際的に便利なのかはわからない。使用者が使う、という視点を欠いて道具を論じても机上の空論になりがち。

つまり、使用者の用途や環境という文脈があり、そこにはトレードオフがあって、そこにぴたりと適合する「道具」が適者生存的に使われ続けている、ということがあるわけだ。その理解を欠いて思考しても、飛躍的ではあるだろうが、地に足がつかない話にはなるだろう。

これは別に「生き残っているものが偉いのだ」という主張ではない。生き残っているものが適合していたその状況や構造を無視して話をしても、「道具」の議論としては不毛になる、という話だ。

調べる技術

調べる技術には、見つける技術がまずあり、次にそうして見つけたものをどう判断するのかの技術があるだろう。

タスクとアイデアは違う

仮にアイデアとタスクを峻別したとして、じゃあその関係はどうなっているか、という問いが立てられる。アイデアから新しくタスクが生成されるのか、あるいはそのアイデアがタスクに変換されるのか。

どちらも整理です

「部屋が整理できないのに、なぜタスクは整理できると思ったんですか?」

方法の不足

「not for me」なものと出会ったときの"方法"を知らない、ということはあるのだろう。方法を知らないから混乱し、「not for me」なものを敵視してしまう。ある種の幼さではあるのだが、だからといって責められるものでもない。

それはそれを作れるか

ここ最近、「ChatGPTを使ったほにゃらら」みたいなものをよく見かけるが、その開発プロセスやアイデアの洗練においてChatGPTがどれくらい使われたのかはちょっと気になる。

関係性に興味があります

今気がついたけど、僕が対象をぱっと捉えるときは、その対象そのものではなく、それを含む関係にフォーカスしていることが多い。極端に言えば、オブジェクトそのものはわりとどうでもいい。

フィードバックの欠落

コミュニケーションが不得意な人は、どのようにしてその事実を知るのか。

不理解の理解

現状chatgptは「それって何ですか?」と聞き返してくれず、手持ちの材料で文法的には適切な文章を返してくれるので、こちらが先回りして文脈をもりもりと補強しておいてあげる必要がある。

「このような意味で捉えましたが、それでよいですか」のような打ち返しがあれば、もっと共通的に文脈を構成していけるだろう。でもってそれが人間が会話で行っていることだ。

まさにこの点こそがうまく使える人とそうでない人の差を生み出しかねない。

ビジネスはしか

長年地味だけどその人にしか書けないことをブログで発信していた人が、ある日“ビジネス”に目覚めて聞き齧ってきたどこにでもあるような内容を濫発し始めて、それまで築いてきた信用を高速で崩壊させいく、ということがあった。

メルマガでも以前書いたが、お金を稼ぐことが悪いわけではない。“ビジネス”と呼ぶしかないような活動が問題なのだ。別の視点で言えば、価値についての考えがあまりにも粗雑。あたかも「これは価値があるんですよ」とラベルを貼ったら価値が生まれるかのようなもの。無論、長く続くわけでもない。

たぶんこれははしかみたいなもので、若いうちに一度通過しておいた方がいいのだろう。