インターネット

僕はインターネット老人会所属なので、何かに刺激を受けて記事を書き始めたら、その刺激元のリンクも合わせて書くのが常になっているが、別段それは当たり前のことではないのだろう。

滞在率などを考えればそうしたものをわざわざ言及しないのは自然な適応なのだろう。

たぶん昔の(といってもちょっと前だが)インターネットでは「私たちがインターネットを作っているのだ(自分たちの記事たちがその部分となっている)」という自負めいたものがあったのではないかな。

そういう感覚だと、「検索すれば情報が見つかる」状態を「情報が落ちてる」という語感は

ちょっとフィットしない。でも、もう大量に情報があることが当たり前で、しかもそれがAIが作った方がマシなんじゃないか、みたいな状態だと変わってくるのだろう。

「落ちている」というのは、そこに価値を見出していないという表れではあるのだろう。

なんにせよ、ブログなどは形式や規則がない(何をどう買いてもいい)からそこ、何をどう書くのか(そして書かないのか)で現れてくるものが多い。

何に照準を定めるか

利用頻度がきわめて低いものを、利用頻度がきわめて高いものと同じように見つけ出せるようにすると、利用頻度が高いものを探すときに影響が出てしまう。

あるいは500件に一件だけ濃密なメタ情報が必要なものが出てくるとして、それに合わせてフィールドを整備すると、ほとんどの場合使われないものが生まれてしまう。

だから「まーしゃないな」を受け入れることが大切になる。で、固いデジタルツールだとなかなかそれが難しい。

無敵の理論

「考えずに全力で取り組めば必ず良い結果が得られます」 「どんな結果もすべて正しいのです。あなたの受け取り方ひとつ」

組み合わせると、提案者に一切の瑕疵が存在しない無敵のアドバイスになる。

「気がする」の意味

「〜な気がする」といったとき、後半に(気のせいかもしれない)が隠れている場合と、断言のオブラートの場合がありそう

スパンを持って眺める

ある程度のスパンを持って眺めていると、景気の良いことを言っている人がどういう道行を辿るのかが見えてくる。ここでもやはり「維持される時間」が鍵を握る。

仮固定の難しさ

完全に固定すると、もうそれについて考えなくてもよくなる=>認知的エネルギーが節約できる、という感じでわりと固定が優先される印象がありますね。

https://twitter.com/masayachiba/status/1618556812462264320

プログラミングで複雑な入れ子上のIf文は読むときにすごく疲れる。新しいIfに出会うたびに、そこまでの内容を一旦「置いて」次に進まなければならない。文章でも復文や重文が多様されていると同じことになるだろう。これは仮固定的に読んでいくと言えそう。その上で、

以前千葉さんがツイートされていた、脱構築に至るには長い文が必要という話が関係してくる。ある種のタフネスがないと仮固定のままに「置いて」おくことが難しく、すぐにネジを締め切ってしまうのだろう。

たとえば、人への評価でもちょっとした印象からその人がどういう人なのかを決めた方が楽だが、しかし軋轢や崩壊を避けたければ仮固定な評価が必要なる。

意見をはっきりと決め、それを固持し続けるのが偉いのだ、という価値観なら物事はどんどん固定的な方向に向かってしまうだろう。

実用と哲学

「実用」を突き詰めると、思想的・哲学的な地盤にたどり着く。

楽しいを大切に

「楽しい」ということをあまり軽んじてはいけないだろう。逆に言えば「深刻さ」を過剰に重要視しないほうがよい。

考えの力学

権威に委任して与えられた情報をそのまま採択することと、自分の考えを絶対的に肯定してそれをそのまま採択することは、力学としては同型だろう。

バイブルになる

「一冊の有用な本」が時間をかけてそのひとのバイブルになるのはわかるけど、刷り込みみたいな形で早急に正典化するのはちょっと危い気がする。

「たくさんの情報が載っているから、別の本はもういらないんじゃないか」みたいな感覚を与えるのは、読み手の扉を閉じることになってしまうだろう。

三項演算子の効能

最近三項演算子が使えるようになったのだけども、単にいちいちif文を書かなくていいよねという行数の圧縮というよりは、むしろ思考の圧縮効果を感じている。

ファストなものと教養

教養的なものの入り口としてファストなコンテンツが役立つことがあるにせよ、ファストなコンテンツによって教養的なものを軽んじたり嘲笑ったりするまなざしが身についてしまう危険性はある。

これは、現在「知識人」「文化人」的な扱いをされている人が、ただ知識をたくさん有しているだけで、その眼差しが極めて貧相である、ということに通じているのかもしれない。

「付け焼き刃」という表現があるが、あるラインで満足しきってしまうことは良いことばかりではない。

教養がある人として期待したいのは、文化Aと文化Bを単純に比較して文化Aが優れていると断じるのではなく、それぞれの特徴を踏まえた眼差しで何かを語ることだろう。そういうことができていない人は「教養なき知識人」という感じがする。むろん“芸風”としてそういうスタンスはありえるだろうけれども。

ビジネス教養とファイス教養

私生活では特に感心はないがそれをやっていると仕事上のポジショニングとして有利だからやる、というのが「ビジネス〜〜」と呼ばれたりするが、その意味で「ビジネス教養」みたいなものはあるだろう。

で、これに感化される形で"ファスト教養"的なもののニーズが起きてくる。

しかしそこには、この世界に対するwonderはほとんど何も含まれていないのだろう。

調べる技術の重要性

知識の総体をあらかじめ伝えるのは無理なので「調べる技術」を伝えるのは有用なわけだが、ChatGPTでますますその感が強まってきた。

言葉の奥の意味

「これこれこうだから、(日本に比べて)あの国は進んでますよ」的な言説は、伝えている情報以上に「自分は日本人でありながらその"問題点"を感知できるすごい人なのだ」アピールが強い。

再帰

再帰。有限の記述が無限の実行をコールする。それを可能にしているのは何か。

AIは嘘をつかない

チャットAIさんが事実と異なることを述べたとき「嘘を言った」と感じるのは、それが会話体で提供されているからだろう。

思考のやけつき

同じ画面を映し続けていると焼けつきが起こってしまうのと同じように、まったく同じことについて考え続けていると思考も焼けついてしまうかもしれない。

タイパ?

「コスパ」はわかるが「タイパ」となるとまったくわからん感が出てくる。

そもそも「効用を効果で割る」が時間の場合成立しない気がする。

コストというかお金〈貨幣〉はまさにそういう均一な計算が可能に形成された要素だけども、時間はそうではないのではないか。

バリュー(価値)と効果の関係も不明。

程度の問題

「考えすぎてはいけない」というのは確かにそうだろうと同意しやすい。問題は、どこまでいけば考えすぎとなるのかというラインだ。あるいはその兆候。それを欠いた状態だと「まったく考えない」となってしまう。

これは「程度の問題」なのだが、その認識がないと白か黒かになってしまいやすい。

AIと文学

AIがうまい小説を書くことはあるだろう。でもそれだけでは文学という営みには直接関係がない。

自分の庭

デジタルガレージ論から出発して「自分の庭」の話ができそう。

生活の中の読書

『生活の中の読書 〜特に成功もせず年収も上がらない読書の方法〜』

毒状態

自分の思いが何かに毒されている状態で「思いを実現させた」ら、より一層毒が回るだけだろう。

他者と自己愛

他者が欠如した状態で自己愛を追求するなら、泥沼にはまっていくだろう。

思考と速度

「うむむ」とじっくり考えたくなるような情報は、ある種のビジネスモデルでは忌避したい対象だろう。

どこの中で考えるのか

どこで考えるのか(もう少しいえばどこの中で考えるのか)によって違いが生じるということはありそう。インラインで考えるのか、その外側で考えるのか。

雑多さの耐えられない重さ

オーガニックやスピリチュアル的なものって、「純なるもの」という気がする。“雑"とは逆の方向。でおそらくそれはノイズが小さいのだろう。

ノートの書き方

「How to Take Notes,Make Lists,Set Cards,Write Papers」

後から意味付けする

自分が何をしているのかを、してきたことから考える。

言葉遣いと構え

最終的にどんな言葉を使うかは人それぞれだが、その言葉に(あるいは言葉遣いに)潜む考え方ないしは構えみたいなものを掘り下げて、必ずしもその言葉と構えがセットである必要はない、と確認する。そういう仕事にも一定の効があるだろう。言葉を通して「構え」に迫る。そういう仕事。

読みたい本

どうせなら、自分の書く本で世界を変えることはできないだろうが、たとえわずかでも読み手にとって良いと思える変化が訪れてくれて欲しいという願いを持った著者の本を読みたいものである。

その意味で、情報だけを摂取しているわけではない。

今から一ヶ月後と一年一ヶ月後が等しく見えることの是非

認知的に、時間は未来と過去で非対称だし、それぞれ現在から遠ざかるほど曖昧になる。過去に関しては記録がその曖昧さをフォローしてくれることはありがたいと感じるが、未来に関してはむしろその不確定さが可視化された方がいいのではないか。

呪いを生みやすい文化

目標やタスクリストが呪いになりやすい。それを後押しするカルチャーがあるのだろう。そこを何かしらハックしたい。

人の背中をポンっと押すもの。ちょっとしたナッジ。それならば良いのだが、その力が大きくしかも継続的に作用し続ければ、背中を押され続けることになり、やがて転ける。

目標と約束

目標は目標であって、自分との約束ではない。目標を自分との約束にすることはできるが、それを直結させない方がよい。

攻撃性を見つめる

自分は何に対して攻撃的になるか、何がその攻撃性のもとになっているのか。それを見つめてみること。

月一回のオンライン講義

テーマを決めて月一回程度のオンライン講座的なものは面白そうではある。それに向けての準備が自分の勉強をプロンプトするだろう。

便利と地味

便利なものは地味なのだ。

質問箱的なものを自作する

Googleフォームを使えば、自前で質問箱的なものは作れそう。

人間の心

Aを求めているのに、半Aを求めてもいる、というのが人間の心の特徴であってその二項対立の綱引きからさまざまなものが生まれてくる。その意味で、自己啓発的な単純な割り切りはあまりに素朴だが、まさにその単純なものも求めるのが人間の心の半分でもある。

主義を持たない主義という言説の分析

「僕、主義は持たない主義なんで」というのは矛盾めいているが、「これ以外の主義は持たない主義」だと解釈すれば特に矛盾はなくなる。

たとえば、この言説の前に「主義を持つ人は、視野が狭くなる」という言説があったとする。で、「だから僕は主語を持たないようにしている」と続く。後者には(という主義を持っている)と補えるからこれも矛盾しているかのように思えるが、しかしメタ的に見ればみごとに整合している。

発話を解釈する行為には、いくつもの階層があり、どこかのレベルで矛盾していても階層をかえれば整合しているということはいくらでもありえる。

統合RSSを作る

自分のさまざまなアウトプットは、その媒体がRSSを発行してくれているのだけども、それを統合するRSSを自分で作ろうかしら。

なめらかでいいのか

仕事術系の「ノウハウ」の多くは、要約すると「難しいことは考えるな。やれ」となる。でもってまさに考えることを止めれば"なめらかに"物事は進んでいく。でもそれで何も問題がないかといえば、なかなか怪しいように思う。

うまさとそれ以外と

ノウハウの普及によって平気的な「うまさ」が向上するのは喜ばしいことだが、しかし「うまさ」があればそれで何も問題がないかといえば、なかなか怪しいように思う。

食わず嫌いな気にくわない

たぶん、「食わず嫌いな"気に食わない”」がありますね。というか、すべての"気に食わない"は食わず嫌いなのかもしれない。なにせ食べたことがないわけだから。