自分専用ではないものの良さ

Twitterの、絶妙に「俺向き」ではないタイムラインが良いのである。

監督者のマインドセット

作業者のマインドセットから監督者のマインドセットに移ることによる弊害というのがあるのかもしれない。

特に「失敗」についての捉え方が変わってくる可能性がある。

技術と志向性

調べるための技術、読み解くための技術、言い表すための技術などがあってどれも有用だが、その背後に「志向」があって、それがなければ技術の知識があっても使われることがない。

短慮は短気

誤読傾向と怒りっぽさについて。

字面だけみて論理構成や意図が追いかけきれていない。短慮は短気。

オブジェクトの変化

これについてちょっと考えていた。

一枚の原稿用紙はひとつのオブジェクトだろうけれども、その上に物を書くときはただ書くための場所として認識されるだろう。紙を切ったり貼ったりつなげたりするのであれば特定の形に縛られない粘土に近いものになるだろう。 https://twitter.com/pokarim/status/1612475527994159105

たとえば、引き出しに原稿用紙が入っているとする。オブジェクトモデルなら、引き出しというオブジェクトがあり、それが原稿用紙というオブジェクトを所持している、という感じになるだろう。これは原稿用紙の在庫管理に最適なモデルである。では、人間の認知ではどうか。

引き出しから原稿用紙を取り出すときはそれはオブジェクト的であろうが、ペンを持ってそれと向き合っているときはそれはフィールドのようなものであろう。つまり、行為によって(つまり注意の向け方によって)対象の立ち現れ方は異なってくる。オブジェクトモデルでは、この変化は見えてこない。

私たちにとってオブジェクト(対象)は、ソリッドなもの(≒くっきりした境界線を持つもの)ではない。それはさまざまな行為において変化していくものだ。そういう認知の感覚と、ツールを適合させようとするならば、ツール側にも何かしらの変化が必要だろう。

プロセス型のアウトライナーにおいては、見出しと本文という「境界線」がズーム状態によって動的に変化していく。しかもそれが再帰的に適用されるので、どのような「高さ」にでも対応できる。しかし、どの高さであっても「見た目」が同じという問題を抱える。

「見た目」を定義する場合は、ある程度はプロダクト型(たとえばWord)なものにならざるを得ないだろう。あるいはユーザーがその「高さ」での見た目を定義できるハッカブルなツールか。

キモさとエモさ

『キモいとエモい:感情過多社会』

re:vision式仕事術

短期の予定と結果を短く書き留めながらイテレーションを回していく。そうするとフィードバックを受けないわけにはいかないので、トップダウンとボトムアップが混ざった進め方になる。

論破が必要とされている状況

「はい、論破」という絶対防御が好まれているとするならば、それくらい切実に攻撃に晒される懸念があるということなのだろう。

とは言え、論破しか選択肢がないのは少し寂しい。

たいていの場合「Aが問題」ではなく「Aしか選択肢がないのが問題」であろう。

思うことと認識

たとえば目の前で動いているライオンを見て、「あれをぬいぐるみだと認識しよう」と思ったところでそうはできない。逆に前の前のぬいぐるみを「これは生物のライオンだと認識しよう」と思ってもやっぱり無理。私たちは対象の立ち振る舞いによって、それが何であるかを認識する。

一方で過去の記憶を想起して「あれってぬいぐるみだったんじゃ」と疑うことはできる。目の前に対象がないから。

何かがその時点で目に入っているという状態は認識に強い影響を与える。生存のために必須だからだろう。

存在と半存在

エディタにかかれた文字も、エンピツで書かれた文字も、どちらも書き直すことができるけれども、認識的に両者はイコールではない。前者は存在論的に「半存在」しかしていない。

連想のモデル

人間の連想は確率論的なモデルなのだろうか。

肯定すること

何かを肯定するとは、どういうことなのだろうか。考えてみるとなかなか難しい。

デジタルガレージ

textboxは一種のガレージだな。デジタルガレージ。

純粋でないもの

良いものの中にも良くないものが入っている。良くないものの中にも良いものが入っている。それらは純なものではない。だから良くないものを見つけてもその全体が良くないとは言えないし、良いものを見つけてもその全体が良いとは言えない。

水星の魔女

水星の魔女は、「逃げちゃダメだ」に潜む呪い性をあぶり出しているところだろう。後はそれがどう解呪されるのか。

カスタマイズの無限性

あるツールの中で、自分の用途に合わせたカスタマイズをすることと、自分の用途に合わせてツールを作ることはかなり違いがある。後者は途方にくれるほどの選択肢が生まれてしまう。

有言実行

有言実行はすごいことだ。逆に言えば、言ったことができないのは「ふつう」ということだ。

異なる情報表示

異なる情報表示形態を組み合わせることで、そこに「動き」を与える。その意義。

KJ法のA型からB型もそうなっている。

そこでは二つのオブジェクトが独立的に存在しているのではなく、あるオブジェクトが別のオブジェクトの生成につながっている。生成変化。そこに動的さがある。

一度に一つのオブジェクトしかビューしていないと、この動きが捉えづらい。

心の声

心の声が内なるコーチになることもあれば、内なる批判者になることもある。どちらにせよ、それは自分が備えた振る舞いである。さて、もしコーチができない人がいたとしたら、その人の内なる声はどのようなバランスになるだろうか。

考えること

“ねずみこう"に参加する場合は、自分がどのくらいの位置にいるのか、という情報がきわめて大切になるだろう。そういう風に状況把握がクリティカルなものがたしかにある。

そういう状況と「考えないで、感じましょう」的な言説の食い合わせは非常に悪い。むしろそのためにそうした言説が要請されている。

逆に言えば、そうした言説の登場はじっくり考えられたら買ってもらえない製品やサービスという表明でもあるわけだ。

「考え」を抑制して選択を促した挙句、選んだんだからそういう選好があったのだと主張して開き直るのは、端的に言ってイビルだろう。

ぶつぶつ促進効果

自宅でプログラミングしているときは結構ぶつぶついいながらやっているのだけども(「あの配列から必要な要素を抜き出して……」)、やっぱりそれは効果がある。口に出すことで外部化・対象化されるからだろうが、別の言い方をすればそこから「動き」が生まれるからだろう。

20歳の頃に知っておきたかったこと

「20歳の頃に知っておきたかったこと」的なやつは、たぶん20歳の頃に見聞きしてもあっけなくスルーされるのだろう。

ビジネスと仕事

「ビジネス書」とは言うが「仕事書」とは言わない。

「仕事術」とは言うが「ビジネス術」とは言わない。

雑多なコンテンツ

基本的に雑多なコンテンツが好きなのだけども、結果として雑多になったものと「雑多」を狙ったものとは違いがあるように感じられる。

本はさまざまなものを与えてはくれるが、ファンタジーのスクロールのように頭から最後まで目を通せば立ち所に問題が解決するようなものではない。

前提としての自由

「自由であるため」と「自由になるため」の差異。

クリエイティビティーの必要性

たぶん世の中の仕事では、そもそもそんなにクリエイティビティーが求められていない、という状況があるのだろう。でもって、それは抑圧でもなんでもない。