二つのコミュ症

コミュ症というと、しどろもどろなわかりやすい不成立がイメージされるが、一方的で高圧的な一見成立しているようでしかし中身が空虚なものもあるだろう。

似ているけど、異なる

似たり寄ったりで異なる僕ら。というアンビバレント。

適応で説明しすぎると抜け落ちるもの

「それが今そこにあるのは適応の結果だよ」という言説が正しいとしても、そこで見過ごされている何かを感じないではいられない。

『理不尽な進化』と関連する話。

カードとその位置づけ

Zettelkastenは小さなカードを作るわけだが、それをカード群に位置づけることを同時に行っている。

「なるもの」としての主体

主体が「なるもの」であれば、極端な白黒ではなく程度の問題として捉えられる。

自分と対話する準備

よく本を読んできた人は、自分と対話する準備が整っている。

アテンション・クライシス

アテンション・クライシスとも呼べる状況が昨今広がっている。注意というものが確立しにくい。あるいは、それは一方的な注意に留まっている。

文章を書く難しさ

言語がジェスチャーゲームなら、顔の見えない第三者に向けて文章を書くことがいかに難しいのかがよくわかる。

っぽさの大切さ

「〜〜っぽさ」というのはバカにされがちだが、それを軽視するのはあんまりよくない気がする。かといってその内にとじこもっていればいいというわけでもないが。

物語と倫理

物語の中でこそ立ち上がる倫理がある。それは物語が抽象性ではなく、一回一回の具体性と直面させるからだろう。

否定は簡単

「それは違う」と否定したり、何かしらの瑕疵を指摘することは簡単にできる。理屈をつけることも容易だろう。一方で、「その考えが間違っているとしたら、こういうことが考えられる」と新しい考えを提示するのは簡単ではない。だいたいの論破は前者で終わっているだろう。

たぶん「AIひろゆき」みたいなのは簡単にできるだろう。

整理の目的

整理のための整理は当然生産のためには役立たない。それを逃れるためには「何のために」という目的を見据えることが必要。ところで、アイデアは「何のために」がわかりにくい情報である。よってアイデアは整理のための整理にはまりやすい傾向を持つ。

知的生産に不要なもの

ある種の熱狂は、知的生産には不要であろう。

場としての学校

場としてみた学校は知識や技術の伝達とはまた違った出来事が生じているのだろう。でもって僕らは予想以上に他人に影響を受ける。

パブリックな感覚

ネットがあまりにも身近になると「パブリック」というものの感覚が逆に薄れてしまう、ということはあるかもしれない。ハレとケがなくなるみたいに。

現実逃避

現実逃避は逃避なのだから別によいのだろう。現実が置換されはじめると厄介になる。

私たちは一つの(一つでない)物語を生きている。この多重性が大切。

二種類の「知的生産しなければならない」

「知的生産しなければならない」も、業務からの要請の場合もあれば、自分の「やりたい」が強すぎてその制御からはみ出ている場合もあるだろう。

前者はバートルビー的拒絶が可能だが、後者はどうだろうか。

理論とノウハウの組み合わせ

背景に理論のバックボーンがありながらも、読者との接面では実用的なノウハウになっているもの。そういう塩梅が良いのかもしれない。

テラスの重なり合い

領域の交じり合いというか、さまざまな領域の「テラス」の重なり合いみたいな側面がかつてのTwitterにはありましたね。

「知の巨人」現象

誰かを「知の巨人」と呼ぶことで、値の領域が一般市民から疎外される。

手放す、という感覚

初めから持たないのではなく、強く握りしめていると気づいたらそれを弱めること。

あふれ出た部分としての利益

コップに水を注いでいくといつしか溢れる。仮にその溢れる部分を「利益」とするならば、空のコップに水を注ぎ込むことを回避して溢れた水だけ得ようとするのは虚しい行為となる。

クイズ的反応

文章の主旨を読まないで、単語に反応してクイズをやっている人というか、そういう反応をさせられているメディア的傾向というのがあるのだろう。

ショートショートネタ

chatGPTがおかしな回答をしたら、世界がその通りに書き変わる、というSFのネタを思いついた。

空虚なノウハウ

ノウハウは空虚なものではなく、あらゆるノウハウには価値観がセットに、なっており空虚な価値観を持ったノウハウがあるにすぎない。

カジュアル・プログラマー

ゲームの世界ではプロやガチと対峙する概念としてカジュアルがあるのだけども、その言葉を借りれば僕はカジュアル・プログラマーとは言えるだろう。

計画は予期ではない

計画を予期の拡張だとするところに問題が生じる。

知的生産という呼称

知的生産というのは「知的生産」という行為があるわけではなく、ある種の行為を知的生産と呼ぶことができる、というだけだ。

まず知的な営み全般があり、そのうちのある類似性を持つものを知的生産として抽出できる、という構図。

エネルギーをどう使うか

ある種の暇さというか、対象を貶めること以外にエネルギーの向け先を持たないというのはあまり健全ではないだろう。

効率化は二番手に

効率化はたしかに有用なわけだがそれ自身が最上位の目的となってしまうとおかしくなる。ある目的の下位に位置づけられるとき効果が発揮される。

逆の言い方をすれば、最上位の目的とは何かというタフな問いを回避して、何かを為した気分になれるのが効率化の「効能」であろう。

個人主義の呪い

「自分は人生から何を得られるのか?」という問いは個人主義の呪いのようなものだろう。でもってこれは人を受動的な立場におく。