仕事にする、仕事になる

「〜を仕事にする」という表現。もちろんわかるんだけど、それが仕事して成立するかは自分だけでは決められない部分がある。

僕のような自営業をしている人は、たぶん「仕事になる」とか「仕事になった」という感覚が強いのではないか。歩がまっすぐ進んでいって、敵陣でくるっと裏返ったように。

生活の中にある執筆

執筆作業においてトップダウン/ボトムアップというアプローチが検討されるが、それは検討のためのズームが行われていることは意識したほうがいい。実際はまったくのゼロから立ち上がる企画もないし、企画以外のことは行わない生活もない。ズームアウトすれば、執筆は生活の中に位置づけられる。

不確定に身を置く

何かをそうだと思ったときに、同時にそうではないかもしれない、と追加で考えること。確定ではなく、不確定に身を置くこと。

言い換えれば、自分の理解と世界の真実を直結させないこと。マージンを設け、間接にすること。そして変換を意識すること。

一つの予想として、変化に乏しい生活を続けていると、その二つの距離はだんだん近づいていく。自分の「そう」が、実際にその通りになることで、認識が強化されるから。

たとえば、偉くなると周りからフィードバックが(遠慮などによって)減っていき、結果的に認識エラーを自覚することがなくなっていく。

批判と憎悪

自分の内側で憎悪と批判が結びついている人は、人の批判を見かけると、その裏に憎悪を読み取るのだろう。

すべてを「ひとつ」にはまとめない

たぶんだけど、メモ・タスク・Wikiをぜんぶ「ひとつ」にまとめない方がいいのだろう。それをしたくなるのは、均一化欲求もしくは内面化された統治の反映で、つまりは没個性の呪いだ。

何を為すのかの手前

「何を為すのか」の手間にある「何にエネルギーを使うのか」。

「何に注意を向けるのか」も。

ゴルディロックスなお世話

お世話には、「余計な」がつくことがある。つまり、お世話はゴルディロックスな概念である。不足だけでなく、過剰もまた問題なのだ。

間のなさ

「このノウハウはすぐに可能にしてくれます」という時間性の欠如。それがもたらす「すぐにできないこと以外は何もできない」という感覚。

0か100かの感覚。今できないものはずっとできないという認識。段階の欠如。万能感の領域の外はすべて無能感の領域になってしまう。

まじめと真剣の差分

“まじめ"と真剣の差分が生んでしまう何かがあるのだろう。

物は位置を持つ。位置はプロパティ以上の手がかりである。

僕らにとっての道具は、僕らつまり人間の認識の様式と関わっている。そして、その認識において座標はかなり重要度が高い。『脳は世界をどう見ているのか: 知能の謎を解く「1000の脳」理論』を参考に。

リストの項目は、匂いも重さも形も硬さもない。少なくとも差異=情報を立ち上げない。その欠落が「抽象的」だと言われるが、それは具象に対置されるものというよりは、単なるラベル感という感じが強いだろう。

付箋的

リアルな付箋の機能は断片的情報の移動性で、それは付箋アプリ的なものとは別に、iOSの「共有」のようなものと近似している。

小さいは見つかりにくい

今でもWebには小さく楽しいメディアがいっぱいあるのだろうけども、小さいがゆえになかなかそれらと出会えないジレンマがある。

ノートテイキング

そういえば「ノートテイキング」ではなく「ノーティング」という言葉をわざわざ用いたのは、「ノートテイキング」は書くことだけに注意が向きがちなのに対して、「ノーティング」はその利用や情報がそこにあることといった周辺も含みうるからだなと気がついた。

物と経験

物自体<->純粋経験

タスク管理の側面

タスク管理は、「作業の経済学」的な側面があるが、それだけで片付くものでもない。

ページの種類

Textboxにいろいろページ/ファイルを作ってわかったのは、まずテンプレートで作成されて欲しいページとそうでないページがあり、そうでないページにもある程度の類型があるものと、唯一それだけのページがある。それぞれに扱い方が異なる。

不均一の価値

部分的に負けられることが持つ価値を考えると、すべてが均質な意味を持つことは危ういかもしれない。