改悪という表現

サービスなどの料金が上がることを「改悪」という人はどういう価値観で生きているのだろか。皮肉とかではなく。

閉じこもる決意

多少息苦しかろうがムラの中で生きる、という人には創造も対話も熟慮も必要なくむしろ有害で、そういうものが価値を持つという話ですら目の前にある物語を相対化しかねないので危険なのだろう。

心の会計効果

心の会計効果というのがあるが、あれはお金の方が不自然なのではないか。

どのような形で入手したものであれ、常に普遍的・統一的な価値を持つ、という概念はたぶん自然にはないし、意味付けする人間からしたらあまりにも不自然。

弱さへのまなざし

弱さへのまなざしがあり、そこから生まれる問題提起がある。形骸化してそのまなざしを失った問題提起は、新たな権力として振る舞いはじめる。

〈今日のノート〉について

〈今日のノート〉は、Homeでありながら、相対的である。

今日という一日は、それが一日である限り「今日のノート」を持つ。一方で、そのノートの実体は毎日ことなる。変容し続けるHome。

自分は書けるという感覚

自分は書けるという感覚と、自分は(とてつもなくすごいものは)書けない感覚の重ね合わせがないと、本一冊を書き上げるのは難しい。

つまりそれは、「書ける」という感覚の解像度を上げて、「何を書けるのか」をより明確にすることだろう。

冒険と推論

冒険(ないし賭け)ができないならば、推論のジャンプもできない。

「編み出す」

「編み出す」という言葉はすてきだ。英語にするとcreateかもしれないが、そうではない語感が日本語にはある。素材から何かを生み出すこと。

knitがそういう語感かもしれない。kninからunitを作り出す。

セルフマネジメントという人工行為

セルフマネジメントを管理方向に突き詰めすぎた反動として、「何も管理しない、目標も作らない」というようなオーガニック的な方向に振れる場合もあるが、それも極端であればやはり機能しない。

人が社会の中で生きるという行為は、どうしたって人工的なものが含まれる。それを忘れてはいけない。

読書の門前

「読書の門前」というのがあるとしたらどんなものかなと考えてみたら、タイトルを知っていたり噂話を聞いたりしている状況なのだろうと思い至った。でもってほとんどの本について僕たちは門前を彷徨くしかない。

アイデアとプロセス

人間が最初に思いつくアイデアは完成度が低く実に粗い。一方で、そこに重要なポイントが含まれていることも多い。だからこそ、プロセス(過程)が大切になってくる。

断片と対置されるもの

部分的と全体的。断片的と全般的。

メモ書きの効用

思いついたことをちょっとしたメモ書きするのは、スケッチと似たようなものだろう。

シェイク

なんとなく『Re:vision』で書いたことと呼応する気がする。

イベントで大井さんが「先にイメージがある」と言っていた。私も先にイメージというかこれでいけるだろうという確信のようなものがある。細部は朧気だが全体はある程度まとまっている。あとはそのまとまりの中で、弁証法的関係性に身をさらし生起する反応に反応しながら自らを表明していくだけである。

https://twitter.com/tobatoppers/status/1587255294979035136

リアルな生と、イメージとしてのビジョン。その二つを切り離さずに、一つの場において「シェイク」していくこと。

シェイクするためには容器が必要。つまり、「場」を持つことが肝要。

誰の文脈で読むか

文章なり何なりを自分の文脈で読むのは良いとして、とは言えそれは著者の文脈で読んだ上で、という二階部分になるだろう。もちろん、日常会話レベルでそこまで神経質になる必要はないけども。

しかしながら、自分が体験できる内的な感覚は一つなので、自分の「読む」がどのようなものなのかは案外分かりにくい。皆普通に読んでいる(読めている)と感じている。

それを変えうるのが読書だと思うのだが、しかし単純な構図だとループしてしまう。逸脱する何かが必要。

目標は義務を作らない

「目標」というのは、単にそこに向かって進んでいく、というだけのもものはずである。しかし、それは達成されるべきものとして、つまり達成さないれない状態は欠落であると認識され、それが人の心を苦しめることがある。その責を個人に問うのはたぶん間違っているだろう。

部分主義

「断片からの創造」は、あえて言えば部分主義と呼べるのだろう。

「ゆっくり進む」というレジスタンス

「もっとはやく」の環境の中で、立ち止まるでも引き返すでもなく、ゆっくり進むこと。

たとえば、ビッグデータやAIに抗するのは、コンピュータを使わないことではなく(ラッダイト)、もっとそれ任せにすることでもなく(加速主義)、小さくそれを使うことだ。個人的に、自分の道具として使うこと。

そもそもへの疑問

そもそもについて疑問を持つこと。つまり、自分が所与のものとして使っている言葉=概念について、それってどういうことだろうかと問うこと。

よくわからない人のまま本を書いていこう

権威を笠にきるのではなく、面白い内容を伝える人として。