ポッドキャスト

BC047『リベラルアーツ 「遊び」を極めて賢者になる』 - by goryugo - ブックカタリスト

頭の中にある原稿

頭の中にある、頭の中にしかない、素晴らしい原稿は、たぶん組まれていないだろう。

つくりたい欲求

いろいろな感想をみていると、世の中には「つくりたい」という欲求が案外たくさんあるのだなと感じる。一方で、それを直接自己実現とか自己表現に結びつけてしまうとしんどさもあるだろうと思う。

結びついた状態だと、ただ「いいね」を送り合う閉鎖的な環境に閉じこもるしかなくなり、それはそれでしんどさがあるだろう。

不純な利他

前に少し考えたが、おそらく「純粋利他」というのは存在しないのだろう。利他的行為は、さまざまな思惑や意図が混ざり合う。利他は、不純である。だからこそ、利他は正義に染まらずに済む。ためらいや戸惑いという倫理性への楔が打ち込まれている。

あるいは、さまざまなベクトルが等しく打ち消しあった利他が、純粋利他であるかのように見える、ということがあるのかもしれない。

図書館は偉大

子どもの頃には、家に本棚などなく、スポーツ新聞と週刊誌くらしか読み物がなかったが、こうして本を読む人間が育っているので、やはり図書館は偉大である。

図書館は、本に囲まれる空間の提供、さまざまなジャンルの本に触れられる機会の提供、そして、失敗を恐れず本にチャレンジできる環境の提供、という意義があるように思う。

ノウハウと歴史

簡潔にノウハウを教えてくれる本は、そのトレードオフとして「歴史」が抹消されている。その意味は、決して軽くない。

Scrapboxの特徴

比較としてScrapboxの特徴を挙げるなら、遅効性・反伽藍性・簡易性になるだろう。

自分のために何かをする

「自分のため」に何かをする、というのは案外難しい行為である。

書くベクトル

「何かが書けない」という状態は、書くためのベクトルが0のときと、さまざまな方向のベクトルが競い合っていて、前方向のベクトルとしてまとめきれないときがあるように思う。

後者は「諦め」が効果を発揮するだろう。

楽しそうに話すコンテンツ

ポッドキャストへの感想で「楽しそうに話しているのがいい」というのを頂くのですが(ありがたいことです)、そういうコンテンツが案外に少ないのかなともちょっと考えてしまいます。

方法へのまなざし

僕は「知的生産」に興味があるというよりは、「知的生産の技術」に興味がある。方法へのまなざし、というのがたぶん一貫して変わらない視点。

「目標」についても、「目標は必ず立てなければならない」ではなく「目標なんて不要」でもない、「道具として目標を使う」という感覚がある。

でもって、その感覚が、たぶん「メタ・ノウハウ」でもあるのだろう。

方法への興味

方法や技術に興味があるけども、制度と結びついたそれを軽視している(というか見えていない)ところが僕にはある。

方法の複数性

日本語ではわかりづらいが、「方法」は複数形な言葉。

多様性というのは、ある種、方法の多様性でもある。

洗練

洗練と野性。

洗練(sophisticate)は、言葉通り何かを洗い落とすことが含まれる。磨きのかかったものとは、削られたものでもある。

磨けばツルツルになる。削れば尖る。尖ったものが均質に並んでいたら、圧力は均等に分散し、痛みはなくなる。

変化の視点

何かを変えたいと欲したときに、「どういう方向に変えるのか」と「どのような段取りで変えるのか」という視点があるだろう。

どう生きるか

それはそうと、「どう生きるか」といういわゆる人文的な問いに向き合う能力がないときに、「かく生きるべし」といういわゆるノウハウが解決策のように見える、という点はあるだろう。

でも、結局それだけではその問いには向き合っていないことになる。ノウハウそのものをどれだけ高めたところで(というか、高めた結果)問いから遠ざかることになる。

しかし、ノウハウを禁止したところで、たぶん良い結果にはならないだろう。むしろ、問いに接続するノウハウを提案する方が生産的である。

書きっぱなしではなく

「アナログのノートでは、書き足すときに読み返しが生まれる」というのをどこかの記事に書いた気がするが、まったく思い出せない。

こういうのは書きっぱなしにするのではなく、

・概念化してScrapboxに書き留める ・書籍としてまとめる

などをやっておかないと、見つけるための手がかりすら失われていく。

自分のアタマで考える

「自分のアタマだけで考えるな」、というのならたしかにそう言えるかもしれない。とりあえず、「自分のアタマで考えよう」「自分のアタマで考えるな」という二項対立から抜け出ることが必要ではないか。

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う - シロクマの屑籠

OJTと独学

OJTの文化と独学を対比してみることで、浮かび上がる構図があるような気がする。

本一冊分の手応え

どれだけ詳細に語ったとしても、伝えたいことが伝わるとは限らない。むしろ、その詳細さがピントをズラしてしまうことすらある。

「本一冊分の手応え」を踏み外さないようにする。

「我々」とは誰か

論考的な文章で「我々の目標は、この問題を解決することである」といった表現が出てくるが、この「我々」を読み手はどう受け取っているだろうか。

マイクロ・カルチャーセンター

方向性として、オンラインを介した私塾的なものが増えていくのだろう。ビジネスバリバリ、成長イケイケとは異なる、マイクロ・カルチャーセンターのような。

考えの中断

考え続けることは、考えを中断できることでもある。

外部足場の構築

「タスク管理の技術」とは、望ましい行動を促すための外部足場を構築することだと、ひとまずは言えるだろう。

では、「知的生産の技術」とは何かと言えば、望ましい思考を促すための外部足場を構築することだろう。

「知的生産」においては、余計なことを考えないことと、余計なことを考えることの二つが必要(後者がなければ、アイデアには至れない)。その意味で、異なる力が入り乱れる一つの場を作る、というのがイメージとして成立する。ビオトープというのも、そこにマッチする感覚であろう。

達観的な視点

達観的な視点というのは、ある種の"老害"ではあるのだろう。

あるいは、それをそのまま押し付けようとするスタンスか。

疲れているときほどはまる落とし穴

疲れているときに気晴らしで手を伸ばす、SNS、ソシャゲ、短い動画などは、おそらく気晴らしとしてはあまり機能せず、逆にストレスを抱え込むことすらある。

たぶん必要なのは、アテンションを沈めること。

使わないものは捨てる

「使わない物は捨てる」というのはわかるとして、それと同じ考え方で「経験」とかそういったことを扱うのはかなり寒々しい気がする。

身体性のあるテーマ設定

テーマ設定も、身体性のあるものが良いのだろう。

よく忘れる言葉

よく忘れる言葉は、本当によく忘れるので、タグなどで管理する価値がある。

つまり、意味や文脈の方向からではなく、「自分が良く忘れる言葉」というトリガーで探すことが可能になる。

ファスト教養から入る(入り口はなんでもいい)

僕自身は、いわゆる自己啓発とかファスト教養的なものから入るというのも、一つの入り口だと考えています。だって、僕自身がそうでしたから。でもって、そうやっていろいろ歩き回っているうちに(知らない間に)別の場所に移動していることが起こりうると考えています。

ある「○○のため」から入ったとしても、それ以外の「○○のため」に接続することが起こりうる。それを僕は一つの希望だと考えています。その辺を実にうまく汲み取っていただいたレビューでした。