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BC046「オープンさと知的好奇心」 - ブックカタリスト

不真面目/真剣

不真面目/真剣の文脈で言えば、

「自分の人生に真剣に生きるなら、何かしらの規範から見て不真面目と評されることは起こりうる」

という感じでしょうか。

でもってこれが他者へのまなざしにも重なってくる(他人の「不真面目さ」の許容につながる)という側面もきっとあるでしょう。

やる気

やる気に火を灯す。激しすぎれば燃え尽きる。

考えるという行為

https://twitter.com/iketanikazuhiro/status/1570581320224608256

拷問の拷の訓読みは”うつ“か。せっかく手へんに考えるという組み合わせなのだけど、イメージが悪すぎるな。

なかなか面白い。

つまり、「考」にはそうした側面があると捉えられていたのだろうし、それは一つの真実ではある。ある種の苦しみが分かちがたく含まれているわけだ。

バカンス概念

『ライティングの哲学』で秀逸なのは、やっぱり「バカンス」ですね。他のすべてを忘れても、この概念だけはずっと覚えている気がします。

「主体性を取り戻そう」のような空虚な看板よりも、はるかに実存的(?)な感じがします。

葛藤のあるノウハウ

そこに葛藤があるノウハウは、だいたい読んでいて楽しい。逆に、達観地点からのノウハウは、寒々しい感じがする。ときに暴力的ですらある。

何を問題とするのか

細かい方法の話も大切であるが、大きな物事の捉え方も大切で、たとえばストア哲学的なものを少しでもかじっていると「何を問題とするのか」という観点を動かしていけるようになる。

自分の限界性のイメージ

何かしらの知見を得てかつての自分は視野が狭かったことを思い知らされる、ということを幾度も繰り返していくうちに、「自分の視野」の限界性──どの時点であっても限界を持っていること──をイメージできるよになる。

焦燥感に駆られる行為

楽しくてやっていることならよいが、穴を埋めるために焦燥感にかられてやっているならば、たぶん望みは達せられない。

白黒思考の不都合さ

白黒思考は、善悪や功罪の点で機能不全を起こしやすいが、実際的な面でも「できる・できない」を二極化して捉えてしまう問題が起こる。

部分的な否定

既存の考えに否定する要素があったとしても、安易にその考えすべてを否定してしまうのは早計、ということ。

逆に、既存の考えが持つ問題点を指摘しただけで、全却下していると捉えられてしまうこともある。

読書と執筆のバランス

探索と活用のバランスが難しいとよく言われるが、読書と執筆のバランスもなかなか難しい。

ツールを作る、ツールを買う

自分用のツールを自分で作るという行為と、他の人が作ったツールを買うという行為はなんら相反しないし、なんなら共鳴し合うところがある。

自己啓発書の基本的なメッセージ

いわゆる自己啓発書では「細かく心配せよ。備えあれば憂なし」というメッセージが発せられることはまずない。だいたいはその逆。

当たり前のことのようにも思えるが、なぜそれが当たり前なのかを考えてみるともう少し見えてくるものがあるように思う。

風呂敷のちょうどよいサイズ

書籍の企画は、風呂敷を広げすぎると畳めなくなるが、まとめようとしすぎると広がりがなくなる。二つの方向からの綱引きが必要。

フィードバックの欠如

トップダウンから生じる現実的な不具合を現場がfixして帳尻を合わせるんだけど、それがトップにフィードバックされないから、「問題」そのものが可視化されない。

うまくいっている人の考え方

はたして「うまくいっている人の考え方」と「うまくいかせるための考え方」は等しいのか、いなか。

距離を置く

「強く否定するわけではないが、価値観の相違によって距離は取る」、ということがある。少なくとも、表面上は平和である。

誤解しようもないコンテンツ

「理解しようもない」という印象を覚えるコンテンツは、「誤解」しようもない。

同時起動深度さ

書き手のエンジンと、読み手のエミュレーターが同時に起動すると、CPUがいっぱいいっぱいになる。

考えることの非圧縮性

やることというより、考えることが多い。そして、考えることは時間的に圧縮できない。

知能の汎用性と、脳のモジュール

トレンドの分析が的外れな人のビジネスモデルの分析はどこまで期待できるか。

プログラミング教育

https://open.spotify.com/episode/3zWXXA0EtafM82PRD8IbOx?si=0cagg7XJSPWl1c8uuZmkXg&context=spotify%3Ashow%3A2kSxrOJRLZ3oe7USBVQ7vK

山本さんもおっしゃられているけど、 プログラミングをやることで「エラー」に慣れるというか、自分の「考え」の限界性に気がつき、少しずつそれをアップデートする感覚が身につくのは大きいと思う。

そこでは、アンビバレントなことが起きていて、「自分の考え」は(最初)ダメだけど、少しづつそれが良くなる(機能する)ようになっていく、という「ダメ」と「よい」が結ばれる時間的プロセス(≒歴史)が生成されている。

陰謀論にはそうした変容が欠如している。内部と外部がなく、すべてが一つになっている、でもそれは、陰謀論だけの話ではない。

無名の有名人

昔書いた本で「無名の有名人」という概念を提示したのだけども、それを再構築しておきたい。

問題と方法と

「問題」があるときに、解決の「方法」が提示されたとして、その問題に適切な方法でなければ解決は為されない。とすれば、まず「問題」を見極める視点が必要なわけだが、そのことはあまり呼びかけられない。あたかも「問題」は所与のものであり、それに疑義を唱えることが禁じられているかのように。

読了から始まる読書

ともかくざっとでもいいから通読して、その本で著者が言いたいことを捉まえて、後は時間をかけてそのことについて考えていく、という読み方。