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第百十三回:Tak.さんと原稿のバージョン管理について 作成者:うちあわせCast

不意の一致

たまたまWebの記事で「ペースレイヤリング」という概念を知ってメモした次の日に、ぜんぜん別の本で同じ言葉に遭遇した。こういうとき、記憶に残りやすい気がする。たぶん「驚き」が含まれているからだろう。

社会実験

皮肉に言えば、個人が四六時中ネガティブなニュースに触れているとどうなるのかの社会実験が行われているのが現代なのかもしれない。

贅沢なメディア

最近、紙の本を読んでいると「なんて贅沢なメディアなのだ」と感じることがある。

アウトライン作りをたとえると

「アウトラインを作る」は、たとえるとしたらどんな行為になるか。たぶん、人によってだいぶ違うのではないか。設計図を思い浮かべる人もいるだろうし、スケッチ(デッサン)を思い浮かべる人もいるだろうし、ぜんぜん違うたとえもあるだろう。

知的生産

知的生産と、経済における生産は違う。そもそも、知や芸術について「生産」という言葉を使い始めたのが問題なのだが。それは「ちょっとした喩え」だったにすぎない。それを本当に生産管理するのでは、創造性を細らせる。

https://twitter.com/masayachiba/status/1567642866767532032

なるほど。情報の生成が工業と同様に経済的価値の産出に貢献する、という啓発で用いられた言葉が、知的な作業もまた工業的管理と同様に扱えばよい、という誤ったカテゴライズを生んでしまった、と。考える価値のある問題ですね。

梅棹の『知的生産の技術』も「生産」ではなく「技術」にアクセントがある。しかも、基本的にはみんな違ったことをしているだろうけども、そこから共有できるものを見出そう、というアンビバレントなまなざしがある。後年になると、それが消え単純な観点で包括されるようになっていた側面はあるだろう。

誰でも伽藍

ここまで容易に情報が手に入ると、誰でも知の伽藍を構築できる。しかし、それが開かれていないと、その強度は極めて脆くなるだろう。であるがゆえに、それに固執することが起こりうる。

相反する原理の組み合わせ

「日々進捗せよ。そして、寝ろ」

徹底的に、単一の原理性へのレジスタンスを旗振りしていきたい所存。

本をたくさんよむの2タイプ

「本をたくさん読む」と言っても、2タイプある気がするな。

感覚的に言って、「自分はたくさん本を読んでいる」と自覚している人とそうでない人。前者は、冊数などの数字をあげる傾向がある。

今しかない

「今」しかないなら、過去の失敗もすべて無に帰っていくのだろう。つまり、フィードバックが機能しない。

フィードバックが為をつくる

無為が為になるのは、フィードバックがあってこそ。

学べない人

かつては考えていたが、今は考えていない人から学べることはそう多くないだろう。

互いの歩み寄り

お互いに歩み寄ろうとしないと、関係は構築できないという当たり前の話が案外見えにくい。

読む力も構造

ドキュメントが構造を持って書かれるなら、読む力もまた構造的であるはずだ。

効率的な処理

ヘイトやキャンセルは、たぶん癖になるのだろう。その名前を聞いただけで、具体的なことについては考えないで済ます。坊主憎けりゃ、袈裟も宗教も憎い。非常に効率的ではある。しかし、効率的であること以上に大切なことがあるだろうし、なんなら蕩尽したって構わないはずだ。

傾向とツール

傾向として、自分は大きく風呂敷を広げがち。言い換えれば、視点を上がる癖がある。だからこそ、WorkFlowyが合っているのだろう。一方で、そうした自分の傾向を切断するためにカード型のツールが必要で、Scrapboxはまさにその役割を果たしてくれる。

合う合わない

本に合う合わないがあるように、本の紹介にも合う合わないがある。

長期の活動には何かが必要

短期間だけヒットして終わりならノリと勢いでやっていけるだろうけども、長期の活動だとさすがにそれだけだと厳しいだろう。

実践を促すには?

技能の習得には実践(経験)が必要なのであれば、いかに実践を促し、それを継続させるかが重要だろう。細かすぎる知識の提示は、そこでどんな役割を果たしうるか。

前進文化で失われるもの

前進後から振り返ることでしか得られないものは、前進文化では消失していくのだろう。