うわべだと感じる感覚

説得力も信頼感もない、ただうわべを取り繕っているだけ、と感じる言説があるとして、何によってそれを感じるのだろうか。あるいは何かの欠落がそう感じさせるのか。

世界のアンビバレントさ

作ることの背後には壊すことがあるし、知ることの背後には知らないことや忘れることがある。そういうアンビバレントさを見失うと、世界はハリボテになっていく。

人生をストレスフリーに

人生そのものをストレスフリーにする、というスタンスは最終的解決のような危なさを感じる。

気遣いの非対称性

自分が誰かに気を使っていることはよくわかるが、誰かが自分に気を使ってくれていることは(その性質上)なかなか気がつきにくい。

本の材料は何か

時間を蕩尽して、本は書かれる。

本の材料は、言葉のようだが、実際は時間なのだと思う。

一度書き並べる

原稿上にマテリアルを並べきった後で、さらに内容について考える。

構成や順番や粒度や解像度が間違っているにしても、一度書き並べてみること。そこから、改めて考えること。

構成のトリッキーさの功罪

構成のトリッキーさが効果を上げる場合もあれば、邪魔になる場合もある。

伏線の無意識的な作り方

先に考えて伏線を張っておくのではなく、なんとなく書いたものを後から伏線として使う、というやり方。この場合「なんとなく」が大切なのだろう。

単純化の一つの方法

複雑な問題を目の前にして、とにかく誰かに責任を取らせて罰する。そして、あたかもその問題が解決したかのように振る舞う。これも複雑さへの対処法なのだろう。ただし工夫が欠けた方法ではあるが。

負け戦での工夫

基本的に負け戦である、という前提があってその中で何ができるのかを考える戦略と、絶対に勝たなければいけないという戦略では、同じ部分が含まれていても見ているものはまったく違うことになる。

これはライフハックでも同じ。負け試合をひっくり返せるわけではないという諦念の上に、「であっても」という意志をのせるライフハックと、人生の攻略法として捉えられるライフハックは違う。

でもって後者の人が「勝てるわけないんだ」と悟って高らかに宣言しても、前者の人からすればそれは前提であって何をいまさら感が出てくる

ポメラで書くことへの想像

普段パソコンで文章を書いている自分からすると、ポメラで書くことは、別荘とか離れで書くことに近いのかもしれない。

ニュース摂取だけの日常

ニュースだけで日常の情報摂取を構成すると、だいぶ社会像が歪みそうな気はする。

イデオロギー的な主張というよりも、イデオロギー的な情報の受け取り方は世界の捉え方から豊かさが失われているとは言える。

諦めること

諦めることは重力になり、だからこそイカロスのように身を焼かれなくても済む。その意味で、諦めることは選ぶことだ。だとすれば、何をどのように諦めるのか。

代案なしの問題提起

その時代では代案がまだ存在しない問題の提起は、問題を提起することしかできないだろう。だとすれば、そういう問題提起が無意味とは言いづらい。

工夫ができる人、できない人

個人の工夫が抑圧される環境があって、それとは別の環境とで会えていないことによる弊害があるのかもしれない。

すぐさま解決しない

プログラミングしているときでも、不具合にぶつかったら即座に解決(≒そのとき思いついた対策を実装)するのではなく、しばらく寝かせて、アイデアを泳がせていると、そのときには思いつかなかった解決策を思いつくことがあります。

考えてみると、本の企画案なんかも思いついたものを即座に書き始めるのではなく、それを寝かせておくことで徐々に変容するようなところがある。

複雑な世界での生き方

複雑/曖昧 発問/未決 決定/自律

に慣れることの重要性。

わからないへの拒絶

「わからない」という状態に対する拒否反応があるとして、それはなに由来なのだろうか。むしろそれがナチュラルなのかもしれないが、好奇心の存在を考えると簡単には肯定できない部分もある。

でもまあ、ここまで「答え」が充満している情報空間にあっては、「わからない」はある種の欠乏に感じられるかもしれない。

ひとりで考える人

本を読んでも、人と話しても「ひとり」で考えている人がいる。相手の考えを自分の考えを投射して理解している人だ。つまり、相手のことが「わかっている」人だ。

方法を求める理由

自分の弱さと対峙することを避けるために方法の構築に拘泥している人は、意固地なまでにその方法に固執するのだろう。

他人の仕事、自分の仕事

他の誰かの仕事が優れて有効に機能していたとしても、そのままそれを自分が真似するわけにはいかない。かといって、まったく無視するもの違うだろう。

つまり、他人のやり方を学ぶというよりは、他人のやり方から学ぶ、といったこと。

言葉の扱いと思考

言葉の扱いの雑さと、思考の雑さの相関関係。