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BCB040『脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論』 - by 倉下忠憲@rashita2

書けば書ける

「書けば書ける。書かなければ書けない」というトートロジーの檻。

つまり、書いてない状態から書く状態への移行には、「跳躍/飛躍」があるということではないか。

「書かないで書く」というのは、そうした飛躍を経由せず、「ついつい何かを書いてしまう自分」の力を駆動力することと言えるだろう。

ファイルの認知的な重さ

4万字ほどのテキストファイルは認知的に「重い」。

ただし、単にそのファイルの末尾に追記するだけなら、そう重くはない。途中を操作するときにその重さが実感される。

ファイルの追記と上書きが簡単にできるのと似ているかもしれない。

それを踏まえた上で、ではどう原稿ファイルを扱えばよいか。

マッサージとストレッチ

マッサージは体をほぐすもので、基本的に他者の手によって行われる。

ストレッチは筋肉を伸ばすもので、基本的に自分の手によって行われる。

書くことだけができる装置

Textboxに編集機能をつけたので、Textbox上でも原稿が書けるようになった。単にテキストエリアがあるだけなので何もできないが、その分書くことに集中しやすかもしれない。

無限サイズのタスク

認識の中でタスクが無限のサイズを持っているなら、今日何をやったって大して変わらなくなる。

運命と自由意志

https://twitter.com/shotichin/status/1539797482753900545

私たちは偶然の出会いこそを運命と感じたり、運命も偶然も自由意志感と対立したりするので、ややこしい

考えるに、自由意志感を感じているからこそ、それを上回る運命感に圧倒されるのだろう。

感覚は論理で構成されているわけではないのだし。

在野の知的生産

在野の知的生産にはメソッドが欠落していることが多い。プロセスだけがある、というような。

だからこそ良いのだとも言えるし、やはり足りない部分があるのだ、とも言える。

書き手の自分というサブクラス

オブジェクト指向的に言えば、mainクラスの僕は、それぞれの本をどう書くかは決めずに、それぞれの本ごとの「書き手の僕」というサブクラスが実装を決めている、という感じになるのだろう。

それぞれの本のプロジェクトがクラスになっているというよりも、書き手の僕がクラスになっている感覚が近い気がする。

ネットワークの単純化

結局、Google/SEOの構造下において、ウェブ=知のネットワークは複雑さを増すのではなく、単純さを増してしまった。そこが一番の問題なのだろう。

そのような単純化によって魅力が薄れ、儲けられる場所ではなくなってしまったので、また別の場所を単純化してマネタイズしようとしている人たちがいる、ということなのだろう。

散弾銃くらいの効能

自作しているTextboxがどんどん便利になっているし、直接的なお金はまったくかかっていないし、しかもプログラミング技術も向上しているので一石二鳥どころの話ではない。散弾銃くらいの効能がある。

逆に散弾銃くらいの狭さでもある。

執筆は運動である

執筆は、構造物の構築であるようだが、ある種の運動でもある。

モブになる

モブが透明な人にとっては、自分がモブになることは耐え難いのだろう。

いかにモブ化しないか、に重点が置かれ続けることになる。

ルーマンの文章は読みにくい

梅棹もルーマンもカード法を用いていたが、梅棹の文章は読みやすく、ルーマンのそれはお世辞にも読みやすいとは言えない。その点もあって、僕はルーマンの方法をそこまで信用しきれない部分がある。

梅棹は今西に徹底的に文章を直されたらしく、その手法にこざね法があるのも「読みやすい文章の構成」が重要視されていた証左だろう。その点が大切であるように思う。

プロセスは価値観と成果物につながっているので、成果物にあこがれを感じないメソッドは真似しようとは思わないし、価値観が共有できないプロセスは手に馴染むことがない。

倫理と時間

現在だけを生きる人に倫理は起こりうるか。

ムードには乗らない

特定の銘柄が買え買えムードになっているときは近寄らない、というのは「逆張り」ではなく、むしろ真っ当なスタイル。