無知は力なり

自分が言ったことを覚えていないなら(注意を払っていないなら)、当人の中ではいつでも完璧な整合性が保たれることになる。きっと自信満々な態度にもなるだろう。

その意味では、たしかに「無知は力」なのだろう。

手軽な安心

これはつまり、手軽に安心したい、という欲求なのだろう。

https://twitter.com/tobatoppers/status/1537846529066938369

世の中の「わかりたい」は「わかったつもり」という擬制を求めているのであって、ほんとうにわかりたいわけではない。

意志

たぶん、一般的な「意志」と、僕が使う「意志」はちょっと違っている気がする。絶望を跳ね除けるための意志ではなく、絶望の後になお残ってしまう意識。

テイカー

「テイカー」というのも選ばれた生存戦略なのだから、そのことにやいやい言っても仕方がない。応援はできないにせよ、殲滅されるべきとまで行くのは行き過ぎだろう。

成長のイメージ

これはつまり、成長するとはどういうことか、ということであろう。自分の国の中で、王がますます威張るようになること、ではない。

「成長」についての誤ったイメージが共有されているとき、当然そこにいたる道のり(トレーニングといってもいい)もまた誤ったものになる。

たとえば、ポケモン的成長とドラクエ的成長があっって、それらはゲーム的成長としてカテゴライズできるだろう。

https://twitter.com/masayachiba/status/1537599750786416641

人の言うことに対して、ちょっと違うんだよなぁ、という態度をとる習慣をやめて、よく理解した上での考察を行うという王道に進まなければ、人間は成長しない。

読書の勧め

振り返ってみると、読書を勧められた経験もないが、止められた経験もない。まあ、だからこそ読書が必要だったということなのだろう。

二種類の全体

ある作業は一日という全体に属し、その一日は一週間→一ヶ月→一年→一生という全体に属する。一方で、ある作業は何かしらのプロジェクトという全体に属する。「親」は単一ではない。

ロールボード

コンテキスト別リストの拡張として、ロール(パート)ごとのボードを持つ感覚がよいのかもしれない。

異なる考えとの触れ合い方

自分と異なる考えに触れると、最初は拒否感や恐怖感などの感情が湧いてくるだろう。その感情に身を任せるのではなく、一旦理性のモジュールを起動させて、その時点でもう一度異なる考え方に接してみる。異物として処理するのではなく、勝手に同化するのでもないやり方で。

ずらした否定

否定したくなる気持ちを否定する。しかも、そのまま否定するのではなくズラす感じで。

最適化と最大化

最適化が継続の思想ならば、最大化は瞬間の思想だろう。ただし、「最適化の最大化」は瞬間の思想であるように思う。

単プロパティー視点

「稼ぐ」や「儲ける」は、視点がプロパティ一つしか見ていない感覚がある。

一つの変数の最大化。

書くことも読むことも難しい

自分の考えを適切に文章化することの難しさの理解と、書かれた文章を適切に把握する難しさの理解は、表裏一体だろう。

書くことは難しく、読むこともまた難しい。

というか、それが難しいということを知ることがまず難しい。それくらい人は書ける自覚や読める自覚を持っている。

ツールとその話題

あるツールの便利さと、そのツールに関する話題の数の多さが比例するとは限らない。

自由に書く

「自由に書く」には二段階の深さがある。まず「自由に書く」というルールを持った段階と、そうしたルールさえなくなる段階。後者は不自由に書く、という自由さすら持つ。

正しくはないかもしれない最適化

溢れんばかりの(というか溢れかえっている)作業量に最適化したフローを作るのは、暗黙にその状態を肯定していることになりかねない。「効率」という指標はそれを見逃す。

過剰さと有限化

「溢れそうなものを限定する」という行為も、ある種の過剰ではあるわけだ。余る認知エネルギーを囲うことに使う。しかしその囲いは(必然的に)破られることになる。そして繰り返される。

難しいと言っているだけでは

何らかの対象が実際に難しいのだとしても、「あれは難しい」と言っているだけでは、何も始まらないのだろう。

知性とVR

知性は、得られた刺激から生まれる知覚が素材になるし、またそれが制約にもなる。ある種の土台ではある。しかしまあ、AIは視覚を手にしたわけではないし、VRだって映像プラス人間の言語処理が走るのだから視覚だけとは言えないだろう。

機械学習で画像を処理することと、人間の視覚が同じとはとてもいえないだろう。パターンを用いる点は似ているだろうけども。

連載原稿の位置づけ

日課はほぼ管理が不要でリマインドがあればいい。突発タスクはリストで管理する。書籍執筆の次のタスクは流動的なのでターゲットだけ定める。では、毎週連載の記事はどうか。どの手法に寄せるか、あるいは独自の手法か。

「毎週連載の記事」は、週一回発生するwip(週始めのの進捗度は0)案件だとも言える。

「原稿を書くこと」という粒度では毎週同じことをするわけだが、しかし「皿を洗う」という粒度では同じ内容ではない。

話の通じなさ

もともとコミュニケーションというのは難しいものだとした上で、それでも特有の「話の通じなさ」を感じることはある。なんというか、完璧な「理論」がその人の中にあって、それ以外は誤謬認定されているような、そんな感覚。

中庸には判断が必要

「やりすぎない」や「ほどほどに」には判断が必要。思考を効率化したり、他者に委ねている場合は、それができない。

ハローワールド感覚

これは非常によくわかります。うちあわせCastでもよく出てきますが、これが目指されていた形(原点)なんだろう、という気がします。

ドラスティックに主客が逆転するようなイメージ。まさに「ハローワールド」。

https://twitter.com/Foam_Crab/status/1535424704067997696

https://twitter.com/Foam_Crab/status/1535429181462306817

https://twitter.com/Foam_Crab/status/1535429432479215617

技術の向上を目指す

自作ツール、自分のプログラミング技術に合わせて利用形態を作っていたが、いよいよ面倒になってきたのでプログラミング技術を向上させよう。

たとえば、「ファイルの末に追記」とかなら簡単だけど、「特定の記述の後に追記」だといろいろややこしくなってくる。が、そうした方は便利そうなのでそうする、的な。

ア・プリオリの移動

“真に創造的な意志は一つのア・プリオリから他のア・プリオリに自由に移行する” 『西田幾多郎の哲学』(小坂国継)

行為と思考

行為の底に思考があり、思考の底に行為がある。