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BC036『CONFLICTED 衝突を成果に変える方法』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

平等について

すべてを均一にならす「みなし平等」と、個別具体的に捉える「実際的平等」というのが考えられる。

個別具体的に考えると平等ではない、というのに対して個別具体的に考えるからこその平等がある、と言説をぶつけられる。

コンフリクトに慣れること

コンフリクトに慣れていないと、無難な立場に落ち着くか、激しく相手を攻撃しはじめる、というのはたしかにそうだよな、と感じる。

遍在する自問

「ユビキタス・ソクラテス あるいはパノプティコンとしての自問」

内への視点と外への視点は呼応する

内への視点と外への視点は呼応する。であれば、常なる自己弁護(自分は悪くない、自分は愚かではない)もまた、外への視点と呼応している。

自分を呪いにかけなければそれでいい

敷衍して、自分自身との関係にも言えそう。

https://twitter.com/YutaChikauchi/status/1519883936331333632

自分には理解できなくて、そばに居るとこちらが不安になるようなその他者の振る舞いや言動には、こちらが思い付かないようなその人ならではの「切実さ」があるのでは?と立ち止まれるかどうかだと思います。祝福などしようとしなくてよい。呪いにかけなければ、人間関係はそれで上出来だ。

自分から見えないもの

自分から他人の苦労が見えないからといって、苦労していないと断じることはできない。同様に、怒りが表明されていないからといって、怒りがないとは断じられない。

うまり、バイアスを補うための想像力。

R-style Mindset

対象を動的に捉える。そして関係性の中(つまりシステムとして)で捉える。

因果は確率的に捉え、真偽は強度で捉える。意味は多義的でゆらぎで捉え、属性は雑多で不純に捉える。

目的と行為はリゾームに、思考はメタに、価値は構成的に捉える。

鵜呑みと拒絶の共通性

鵜呑みにし過ぎるのと、ほとんどの理解を拒絶するのは、反対の現象だが通底する要素があるように思う。

つまずくコミュニケーション

相手のこと(意図や気持ち)は自分はわかっているし、その理解には疑いの余地がない、という態度で始まるコミュケーションはつまずく可能性が高いだろう

手のひら返しの不買

キャンセルカルチャーというか、「手のひら返し」の不買というのは、時間の厚みを持った評価ではないのだな、と感じる。

つまり、歴史がないわけだ。

差異に近づく

自分がこだわる価値観とは異なる(あるいは真逆の)価値観について真剣に考え、ときに実践してみること。「いろいろありますね」という一見許可的な態度は、認めていない態度のレトリックに過ぎない。自分のコミットメントの中で、その価値を認めてみること。その努力を行うこと。

読まなくでもできる評価

バイヤールが言うように、漫画作品をまったく読んでいなくてもそれについて言及することはできる。その集団内で作品がどう評価されてどう文脈付けられているのかさえ知っていれば問題ない。むしろ作品を実際に読んで文脈外のことを言うことに比べれば、集団内の「お作法」はそちらの方が良いくらいだ。

肯定欲求

承認欲求とは少し違う、肯定欲求なるものがあるのかもしれない。自身の考えや価値観を肯定してもらいたいという欲求。確証バイアスのより前のめりなあらわれ。

何をするにも鍛練は必要

技術や鍛練の不足を個性だと言うようになったら、技術の向上は望めなくなりますね。

バザール執筆法

バザール執筆法では、書いたプロトタイプ稿(≒ファイル)は原則として書き直さない。第二稿は、常に新しいファイルに書き下ろしていく。これはファイルをある種「物質的」に扱っていると言えるかもしれない。

https://twitter.com/masayachiba/status/1519126091570741248

デジタルデータで作業しているときに、デジタルなのでいくらでも流動的だということにどう区切りを入れるか、つまりどう去勢を書き込むかというのはある意味無理である。去勢は物質性と結びついていてデジタル空間には物質性がないから。だがその擬似的実装について考える。

物質性を、もっと言えば物質性の感覚をいかに醸成するのか。

一つの章を書き下ろしているときでも、それまで書いた部分はいったん「OK」として(=細かい手を加えることを禁止して)、とにかく前に前にドライブしていくこと。こういうときに原稿を「固める」と表現するが、まさに物質性が現れている。

まやかす表現

ある種の具体性を「まやかす」表現がある。それを使っていると、具体的にはよく分かっていなくても、コミットしている感覚が得られる、というような。

たとえば「生産性」という言葉がそれだ。それにコミットしているだけで、善に向かって進んでいるような気がしてしますが、そもそも生産性とは何か、という問いがすっかり抜け落ちてしまっている。

複数プロジェクト

複数のプロジェクトを並行して進めることで得られるメリットはたしかにある。一方でその恩恵は線形には拡大しない。ベル型カーブをおそらくは描く。

「パンドラの箱」スキーム。

災いの後に残るもの。あるものが災いをもたらすとしても、災い以外ももたらす可能性があると捉えること。

事実と真理の距離

Aさんが「Xが正しいです」と言ったら、「Xが正しい」という事実としてではなく、「Aさんが"Xが正しい"と言った」という事実としてまず受け取る。

事実と真理に距離を置く。その距離が検討をはじめる余地となる。

で、こういう理解をすると「熱」がさめる。冷笑的なものへの批判は、その点に関係している。

なぜなら、そういう理解は「共感的」な在り方とは違うからだ。

「零度のユーモア」

そのようなデタッチメント=遊離の態度をとると、今日ではしばしば「冷笑系」などと言われてしまいますが、しかしそれは状況に対してただ俯瞰的に冷笑しているのではなく、関係するのだが関係しすぎないという対人援助のバランスと同じ意味で真剣に他者との共存を考えるならば、必要な距離のとり方だということになるはずです『現代思想入門』(千葉雅也)

「正しさ」は正否のデジタルではなく、強度を持つパラメータだと捉えるのがよい。情報摂取の作法。

シェイク

シェイク。主体Aが対象Xをシェイクする。対象Xによって主体Aはシェイクを行う。する、される。中動態としてのシェイク。

活動家の「攻撃」とその追従

攻撃しても大丈夫な対象を選り分ける活動家と、いい人になりたい安全圏からの後追いの批判によるストリーム。

わかりやすい本の二別

ある本を理解するために他のいろいろな本を読む、というのはけっこう普通なことで、「わかりやすい」本はファストフード的加工が行われていることが多い印象。

「わかりやすい」本は大別すると2種類想定できて、読者の疑問心を喚起した上でその疑問に丁寧に答えていくものと、そもそも疑問が思い浮かばないように力強く「断じて」いくもの。

後者のコンテンツばかりを摂取していると、疑問を立てたり、その疑問点に取り組んだりする力は育ちにくいだろう。

ツールに気を配り、しかしツールにこだわらない。

ツールはどうでもいい、ということはない。しかし、特定のツールでなければならない地点までいくと、さすがにそれは行き過ぎだろう。過剰適応。

『分類は積上げの後で』

何かを分類するのは、ある程度対象群を積み上げてからにした方がいい。数が少ないうちに分類し始めると、高確率で「机上の分類」(ないし強い分類)が生まれる。