うまく言えない

思い入れのある本ほど、たくさんの言葉で紹介したくなり、しかしたくさんの言葉が扱いきれず、紹介する言葉は結局そらへと消えてしまう。

簡単な言葉でいいんですよ、と言うのは簡単だ。でも、そうしたアドバイスは何か決定的なものを見逃しているかもしれない。にもかかわらず、やっぱり短くても表現した方がよいことは多い。

難しい問題だ。

語り言葉のよいところは、熱量高く話し始めて結局最後にまとまらなくても、それを「消す」ことができない点だ。原稿用紙ならくしゃくしゃに丸められて捨てられる言葉でも「残って」しまう。

その瞬間は、言葉は「あなた」の道具ではなくなっている。そして、何かが届いていく。

ポジティブ変換

物事をポジティブに捉えることは大切だとして、そんなに簡単に「よいこと」にしない方がいいんじゃないか、と思うことはしばしばある。

まっすぐだからこそ

恐ろしいほどにまっすぐな心根で、とても歪んだことを伝える人がいる。むしろ、まっすぐな心根だからこそ、歪んだことを「まっすぐ」に伝えてしまうのだろう。

気休めの価値

「hogehogeってしょせん気休めだよね」という揶揄があるが、気が休まるなら立派な効能ではないだろうか。

主体の問題

道具を「使いこなせていない」という感覚。それは道具と主体的な関係が結べていない、という感覚由来だろうか。道具を「うまく」使えていない感覚。

たとえば、時間を「うまく」使うとは、隙間時間を有効活用するとか、生産性を最大化することではない。主体的に時間を使う、ということだ。

そしてやはり、ここで「主体」の問題が立ち上がる。自己啓発から現代思想にわたって顔を出す「主体」の問題。

「正しい」本でなくても

書き手自身が、自分の信念をぐらつかせるくらいに踏み込んでいく論考は読んでいて実にスリリングだ。逆に結論ありきで、「勝てる」論敵に反論しているだけのものは、急激に退屈になっていく。

その意味で、読んでいて面白いのは「正しい」本ではないのだな。そういう本は、負け戦の可能性をすべて排除してその「正しさ」を作り出しているから、非常に構築的・誘導的になっている。だからスリリングさは欠片もない。

品が欲しい

「品」という言葉は扱いが難しいものだが、やはりコンテンツには一定の品があって欲しいとは感じる。

別に上品でなくてもよいのだ。並品で十分。あるいはそれくらいがちょうどよいかもしれない。

言い過ぎは誰にでもあるとして

一時的な感情の振れで言い過ぎてしまうことは誰にでもある。それを踏まえて、後はどう幕を引くか、という話である。もし適切に謝罪をしているならば、もうそれ以上は突っ込むべきではない。人格攻撃などもってのほかだ。

むしろそこで突っ込みすぎをするならば、今度はその批判者が言い過ぎてしまうことになり、再帰が起動してしまう。

レベルの合わなさの外部性

英文読解の本では、解説に値する難しい文が取り上げられる。そうした難解な文ばかりを読んで、ぜんぜんわからない感覚が続くと、「自分には英語など読むのは無理なのだ」という気持ちが醸成されてしまう。

単純に、本の内容と自分のレベルが合っていないだけなのだが、その齟齬によって、「英語は自分にとってどういうものなのか」という理解が形成されてしまう。何かを教えるコンテンツには、そういう外部性が常に潜んでいる。

疑問の解像度

疑問の解像度が低い状態だと、そこから先を考えるのは難しくなる。あいまいな問いのままでは、あいまいな答えしか出せない。より具体的な答えが必要ならば、問いを具体化していく必要がある。

総じて言えば、考えるのはうまい人は「問い」の扱いがうまい。脳のスペックの問題ではない。

長い文章を書く訓練

長い文章を書くには、それなりに訓練が必要となる。マラソンを走るには、それなりに訓練が必要となるというのと同じだ。

結局、そうした訓練にどれだけコストを投下できるかが鍵を握る。目指したい文章のお手本を読み漁り、下手でも自分なりにそうした文章を書き、それを読み返して書き直す、という手間と時間がかかる行為を相当量行えるかどうか。あるいは、行うという決断をし、そのために自分の活動を組成(オーガナイズ)できるかどうか。その有無が結果として出てくる。

書かれた文章は「文章」しか見えないが、それが生み出されるまでには、相当の「見えない道」が歩かれていることはほとんど間違いない。

書評の難しさ

書評を書くのは難しい。文字で書かれたものを文字で紹介するのだし、文字数も大抵は限定されている。書評を書く人が自分の仕事に矜持を持つのはとてもよくわかる。一方でだからこそ、紹介できる本には限りがある。星の数ほどある本の大半はスルーされてしまう。あまりに手が足りない。

書評ほど研ぎ澄まされていなくても、本を紹介することにはもちろん価値がある。むしろ、そうしたものに価値を見出していかない限り、少しずつ全体は萎んでしまうだろう。そうやって衰えることに美学を感じているならば話はまた変わってくるが、そうでないならば、多様な紹介のされ方を肯定したい。

でもって、力のある書評であるならば、本を読む人が増えることで書評の価値も再発見されやすくなるだろう。

プログラミングはどれだけ難しいのか

私が自作ツールでやっているレベルのプログラミングが、一般的にどのくらい「難しく」感じられるのかをちょっと確かめたい気持ちがある。

「ノンデザイナーズデザインブック」ならぬ「ノンプログラマーズプログラミングブック」を目指す上で、そうした難易度の確認は避けられないだろう。