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第九十一回:Tak.さんと「仕事ができるとは何か?」 by うちあわせCast

新しいタイプの搾取

紙の本だと「自費出版ビジネス」というのがあるわけだが、電子書籍だとコストを要求することに説得力がなくなるので別の形態が出てくるだろう。でもって、そのとき搾取されるのは現金ではなく、発信者がそれまで積み上げてきた信頼であろう。

能力主義は悪くない

能力主義が問題なのではなく、それが一つの物差ししか保有していないのが問題であるように思う。

編集の不在

必要そうなキーワードを全部つっこんでみました、というタイトルは「編集の不在」である。検索には強くなるかも知れないが、書き手に与える印象が漠然としすぎている。

答えの授与

「答え」を教えてもらうと、「問題」について考える機会を失ってしまうことが起こる。雑に言えば、分析する力が磨かれない。

あと「答え」は、用が済んだら忘れる。頭に残らない。しかし、問題について考える(分析する)その視点は、その人の能力となる。この差は、決して小さくない。

誇張して言えば、モンスターと遭遇するたびに助っ人に戦闘してもらうようなもの。それでモンスターは倒せるけども、自分のレベルはまったく上がらない。

自己啓発の徹底

自己啓発を生半可にやると利己主義に閉じこもるが、それが徹底されると、かえって生半可な利己主義(他者性を含む自己の確立)になるのではないか。

物書きの仕事

物書きの仕事は、たとえば「編集者がゴーサインを出す最低限の原稿を締め切り内に書き上げる」と定義することもできるし、そうしないこともできる。定義は一様ではないし、だからこそ難しい/面白い。

仕事の定義

楽にできた方が、そうでないよりも好ましいが、しかし「その先」はどうなんだ、という観点が欠けていたら、どん詰まりな気はする。

それが「仕事」でないならば別に構わない。でも、仕事とは「事」に「仕える」のである。“自分"はそこでは主体者でありながら、従事者でもある。その二重性を無視した話は、あまりに一面的過ぎる。

文章の巧拙とは別に、そこに"真摯さ"があるのかどうかが、個人的にはすごく気になる。

本を書く上でのサービス精神

本を書いて何かを教えるなんてことは基本的に傲慢なことなので、だからこそ最大限できることをし、面白くしたり、役立つようにするサービス精神もってことにあたるべし、と自分は考えている節がある。

しんどさの解消に必要なもの

たとえば執筆にしんどさを感じている人がいるとして、その人がまったくしんどさを感じない人のノウハウを真似することは、どれだけその緩和に役立つだろうか。

個人的には緩和にはあまり役立たない気がする。それよりも、同様にしんどさを感じている人がどう緩和しているのかの方が実際的だろう、という予感がある。

言ってみたらあたり前のこと

「言ってみたらあたり前のこと」、というのは逆に言えばそうして言語化されるまではあまり意識していなかったことだとも言えそう。

時間の死

時間の死は、変化の死であり

心の死は、他者の死であり

規範の死は、理想の死であり

意志の死は、力の死である。

勢い

勢いは、均衡が崩れた場所に生じる。

心のコスト

「心」の維持コストは高くつくのだろう。でもって、それが文化でもあろう。

企画案

『ノイズ、非合理、たまたま 〜理性への意志的叛逆〜』

異なる見方で世界を見る

哲学者が新しい言葉/概念を確立する。それを正確に理解するという学問的達成もあるだろうが、それとは別にそうしたものに触れることによって、それまでとは違ったスタイルで世界を捉えられるようになるならば、それは一つの達成であり、成果であろう。

その意味で「シェイク」という言葉はその達成を成しているように思う。これは技術/ノウハウの用語だが、同時に思想の言葉でもある。たとえば、中動態的なものがこの技法には含まれている、と言える。

あるいは、諦念とか「えいや」とかも、意志的な非意志というおもろしろい性質を持っている。「作家は死」に、しかし確かに生きているのだ。

教養とは

どうやって面白くないものから「教養」を受け取れるのか、という疑問がある。だって、教養とは、この世界を面白いと思える素養なわけだから。小難しい知識ではなくて。

この世界の面白さを何一つ見出せないなら、あなたが手にしているのは教養ではない、みたいなことを言いたくなるくらいである。

もう、「教養とは、この世界に面白さを見出す力である」と言っちゃっていいんじゃないかな。もしそれがダメだと言われたとしても、そういう素養がきわめて重要だということは変わらないけれども。

この世界には、基本的に「意味」などなく、人間がまず生物的に意味を知覚し、その上に文化的に意味を構築し、そして個人的に意味を見出している。その人がその人なりの意味/価値を創出することを肯定すること。それがベーシックなのではないか。

理解という暴力

疑問を微塵も含まない理解の暴力性。

「わからない」が軽んじられる時代。

論点の機能

論点は、「そこから何が言えるのか」が重要となる。だから、論理的に間違っていない話でも、「で?」となるなら、あまり機能しない。

それは埋めるべきものか?

コンプレックス系広告の問題は、欠落を生み出すことではなく、欠落を埋めるべきものとして再定義してしまう点にあるのだろう。

ソフトウェアということ

アナログツールは使っていると、汚れたり、歪んだり、へこんだりする。使い手の/使い方の「跡」が残る。かたがついてそのページがやたらひらきやすくなったりもする。

なんであれ、そこには変化がある。

何が言いたいのかと言えば、“ソフトウェア"であるはずのアプリケーションが、むしろある種の"かたさ"を持ってしまっている、ということ。

強固な構造による自己管理の必要性

2021年の、しかもデジタルツールにおいて、「強固な構造による自己管理」を行うことの意義とは何か。