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第九十回:Tak.さんとタスク管理にかける手間と時間について by うちあわせCast

BC025 『生命はデジタルでできている』『LIFESPAN』『LIFE SCIENCE』ほか - by goryugo - ブックカタリスト

買い物について

悩んでいる時間が楽しいならそのままで、そうでないなら(そして購入のコストが致命的にならないなら)、とりあえず買ってしまう手が良さそう。なぜなら買わないとわからないことが多いので。

「とりあえず、買う」という決断にしておき、さらにそれを保留する手もありますね。一週間後にまだ欲しいなら、そのときは(何も調べずに)もう買う。

こういうのも、「失敗のない買い物」を過剰に目指さないのが吉ですね(むろん、家計に致命傷を与える出費は別ですが)。

たぶん「失敗」の練習に、買い物はちょうどいいですね。

仕事の「価値」

突き詰めて言えば、仕事は「価値」をどう考えるのか、という話に集約される

抽象と具体の行き来

情報を扱う上で、「抽象」というのは大切なわけだけども、実際は抽象=>具体、具体=>抽象という異なるレイヤーを移動できることが肝になっていそう。

つまり、具体は具体として、抽象は抽象としてだけしか扱えないなら、知識は広がらず、強固にもならない。

雑多なコンテキストが持つ負荷

タイムラインがさまざまなコンテキストで構成されるほど、それを個別に認識することに負荷がかかるようになり、すべて「自分のコンテキスト」で読んでしまう、という傾向はあるだろうか。

あるいは、他者のコンテキストに無頓着だから、そういうタイムラインを使ってしまう、という方向も考えられる。

理解には時間がかかる

理解には時間がかかる。だからこそノートが重要なのだ。行為の継続を支える存在としてのノート。

一冊の本をさっと読み終えて理解できることはまずない(はじめから知っていることなら別)。で、それは"ゆっくり"読んでも同じ。少なくとも、目を動かす速度の問題ではない。そうではなく、わからない部分をどれだけ丁寧にケアできるのか、という話。

そうすると階段をのぼっていける。そうでないならば、たぶん何も新しいことはほとんど理解できない。理解の階段は上がっていけない。

一方で、「これはもうわからん」となったらその部分は"わからん"として前に進むことも構わない。わからないことがわかっているのと、わかったことにしているのとでは大きな違いがある。

ぱっと読み進めることと、立ち止まって考えること。読書のエンジンは少なくとも二つあるし、実際はもっとある。

とりあえず、ある一文に出会って、即座に「わかりました・わかりません」と処理して終わりにするのではなく、「わからない」を抱えていくこと。で、そのときにノート(デジタルでもアナログでも)が役に立つ。

嫌悪と拒絶

感情によって生まれた嫌悪と、理路を積み上げて作られた拒絶はどちらがより強固だろうか。

小さく表示されて欲しい

「やること」や「気になること」は、細いものほど数が多くなる。でもって、ツールにおける表示割合(画面を占める割合)も多くなる。でも、それは「細いもの」だったはずなのだ。

速度を求めるものは孤独である

キリトもアスナもスピード型ではある(少なくともタングではない)。もっと早く。その感覚がアクセル・ワールドにも接続している。そして、速度を求める人間は必然的に「孤独」にならざるをえない、という点がある。そうした中で、なお「つながるものがある」というのが川原作品のテーマではないか。

SAO論の重要な核になりそうな話だ。

執筆の苦労

一日の中で複数のプロジェクトを並行して進める時間を作ることはできるが、脳のキャパ的に難しいことがある(できる場合もある)。で、気がついたのだが、うちあわせCastで話した通り、僕は原稿を書くときに、そこまで書いていた「流れ」を念頭に置きながら書く。これが脳のメモリを喰うのだろう。

だからブログのような単発原稿か、連載でもそれぞれが独立しているようなものであれば、さほど苦もなく書ける。しかし、大きな原稿の「山場」が二つ以上重なると、相当に厳しくなる。

どんな棒だって

「どんな棒だって、振りかざしたらもう凶器なんだよ」

「わかりやすさ」について

仕事柄、「わかりやすさ」についてよく考える。読み手がすでに知っていることを書けば、「わかる」は自動的に達成されるので、「わかりやすさ」は100%であろう。同様に、読み手が知らないことをすでに知っている事柄で表現すれば、「わかりやすさ」はすごく高くなる。ここまでは序の口の話。

一方で、読み手がこれまで脳内に構築したことがないことを伝えるのは、ここまでの方法は使えない。そのたぐりの「わかりやすさ」は作れない、ということになる。

どうであれ、理解を作るのは読み手自身であり、書き手はそのための補助線を引いたり、階段を設計することしかできない。頭の中の大工の仕事を肩代わりすることは不可能だ。でもって、未知の概念を設計することが進めやすい、というのは同じ「わかりやすさ」と言っても内実は異なるものになるだろう。