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第八十九回:Tak.さんと第三回『Re:vision』会議 by うちあわせCast

『法とお気持ち』

『法とお気持ち』という本があったら読んでみたい。

法は手続きを最重視する。感情はそこではせいぜい一つの要素でしかない。判決がまず下され、その後に「情状酌量」の余地が見出される。

一方で、「お気持ち」(=日本文化の「空気」)は、まず結論を確定させ、その結論に合わせて手続きがデザインされる(というよりも、あらゆる既存の手続きが無視され、結論に沿うように再設定される)。

この異なる二つは、決して歩み寄ることができないのか、それとも調和の道筋があるのか。

意志の限界を認めること

意志的な行動で人生を変えるアプローチ。コツ、成功法、習慣、ノウハウ、etc。

そういうものの効用を認めつつ、その限界を受け入れること。意志によって人生を支配しようとしないこと。

陰キャで明るい人

変な話だが、陰キャでも明るい人はいる。たぶん、繊細とか敏感の話なのだろう。

同時に「書く」処理を進めない

「書き下ろす」と「書き直す」と「書き揃える」を同時にやろうとするとすごく疲れる。一つの関数にすべての処理を担わせているような感じになる。

雑なアウトラインをベースに書き進めるときに起きがちなことでもある。

たぶんこれは、「信頼できる/できないアウトライン」という概念に展開できるだろう。タスク管理における「信頼できる/できないシステム」の拡張概念だ。

違うと思うものに票を投じない

どれだけ主流がAというやり方を支持していても、それが違っていると思うならそれには乗れない。特にそのAによって問題が解決していないように見えるならなおさら。それに乗ってしまうのは問題を存続させることに票を投じているに等しい。

厳かな感じのするコード

普段JavaScriptとPythonしか触っていないので、Javaのコードを見るとすごく「重厚」かつ「厳か」な感じがするのだけども、型付けの動的と静的の違いだということに気がついた。

TypeScriptのコードを見たときも、似た感覚を覚えるし。

腕を「道具」として使う

僕が腕を使うとき、腕の「重さ」は感じない。でも質量がないわけでないし、なかったらそもそも使えない。

フィードバック、接続、予想(シュミレーション)。この「滑らかさ」が問題になるのだろう。

主体Aにとって道具Bが完全に直感的なら、それは主体Aに新しい動作/仕事をなにももたらさない。一方で完全に直感的でない道具Cに慣れていくうちにそれが新しく「直感的」なものに加わってくる。

ここでのポイントは、主体を一つの系と見て、それが外部との関与によって時間的な変化の可能性を持つものだと捉えること。

文体こそが

やはり文体なのだ。少なくとも自分にとって文体が確立されていれば(出来は別にして)書いていけるし、そうでないと進められない。

ちなみに、ここでの「文体」はかなり広い意味で使っている。敬体や常体だけでなく、リズム、かたさ、どこまで説明的か、ユーモア、語り口、距離感、すべてを含んでいる。それは結局、コンセプトそのものだ。コンセプトの一番の具体。それが文体。

別の言い方をすれば、「読者」のイメージが立ち上がるとき、文体がその姿をあらわしはじめる。

格言

鉄は熱いうちに打ち、鍋は使ったら洗う。

格言

企画案を手癖で処理しない。常に考えよ。

隣町の斉藤さん

隣町の斉藤さん「いいかい。変化とは、“変"になることなんだ。それを忘れちゃいけない」

「トップダウンビジョン」と「グランドデザイン」

「トップダウンビジョン」と「グランドデザイン」は異なるものだ。

どう違うのか。

少なくとも、トップダウンビジョンでは、無能なジェネラル(『目標の研究』)のようなことが起こるだろう。現場を無視している、ということだ。グラウンドデザインは、むしろ現場を下支えする指針となるはずだ。

ノート運用のポイント

ノート運用のポイントは、どんな情報がどのような形で残っていると嬉しいかに標準を合わせることなんだけど、残念ながらノートを使いはじめる前はそれがまったくわからない。わからないというか、勘違いしていることが多い。

読み書きはインターフェース

読むや書くなどの「情報処理」は、世界と自分のインターフェース。その性質は積分的に影響を与える。

マネジメント/編集/デザインの同一性

マネジメント/編集/デザインは、それぞれ共通のスーパークラスを持つ、かのように捉えられる。

同種の知的作業がそこでは行われている。

文章を書くことの疲れる度合い

コードを書くのはいつまでも続けられる人間が、本の原稿執筆は同じようにいかないのはなぜか。「本を書く」にはさまざまな作業が含まれているが、存外に「今自分が何をしているのか」が意識されないので集中しにくいのが一点。

また文章を書いたとして、それが「機能」するかどうかは、最終的に読み手にしか判断できず、フィードバックが生まれないのが二点。こちらの問題はそもそもその「機能」がどのようなものなのかすら曖昧なこと。

例外処理

「うまくいく」場合だけを考えていると、そうならなかったときに破綻するのであった。

風船フレームワーク

風船を膨らますには息を吹き込むことが必要だけども、穴が空いている風船では息を吹き込んでもすぐにしぼんでしまう。あたり前の話なんだけど、「問題とその対策」というフレームで考えると、そういう話は結構多い。

この話のポイントは「最初は膨らむ」という点にありそうだ。

「想像力の発揮」と「勝手な決めつけ」の違い

「想像力の発揮」と「勝手な決めつけ」の微妙で決定的な違い。

脳は、シミュレーションというか、それなりに確度の高い「決めつけ」を行う器官であり、理性とはそれに異議申し立てをするアンナチュラルな働きなのだろう。

テイカーのリアル

ギブアンドテイクの「テイカー」というの、一見するとジャイアンのようなイメージが出てくるが、そこまで露骨なものはそもそも周りに人が寄りつかなくなるわけで、実際はもっとパラサイト的なものであろう。

力がある人、ジャンル、コミュニティに近づく。その際は最低限の「win-win」の体裁が整えられる。しかし対象に貢献するつもりはまったくない。で、時間が経てば別の力がある対象へと移っていく。そこでも同じことが繰り返される。でもって、当人は「搾取」しているつもりはまったくない。

おそらく、何かしらの「系」が外側から注がれる力によって維持されている、という理解が根本的に欠落しているのだろう。「太陽って、暖かい」という感じ。

門を通していいのは誰か

言葉遣いが荒っぽい人の意見は控えめに受け取る、という指針はある程度機能すると思うが、だからといって言葉遣いが丁寧な人であれば無許可で「よし、通れ」となるのはやっぱり違うだろう。