2021年11月13日までのツイートノート
Contents
知的作業における生産性
知的作業における「生産性」は、多少無理がある概念である。意味がないわけではないが、生産性だけを指標にしても得るものは小さい。
仕事を続ける上で、ある種の抵抗値(R)を下げておくことは有用であり、その点は生産性を確認することになるだろう。しかし、そうした生産性が維持されているからといって、何かが担保されるわけではない。
生産性を最高にする状態に最適化した結果、産業廃棄物を超高速で生み出せるようになりました、ということも十分ありえる。
ある人が一日に集中して文章が書ける時間が4時間だとして、その4時間において雑事に煩わされず、最高のパフォーマンスを発揮できるように環境を整えることは有用だが、コピペを使いまくって薄まった文章を大量生産しても、それは仕事の質そのものを歪めてしまう。この観点が必要だろう。
アイデア管理の程度
アイデアの管理は、データベースとアナーキーの間くらいがちょうど良い。
コンセプトは雪崩的に固まっていく
書籍のコンセプトにおいて、ある一点が定まれば、以降急速にそれまであやふやだったものが定まっていくことがある。そこに従属関係をみれば階層構造であるが、しかし返り値が次々と渡されていくチェーンメソッドとして捉えることもできる。チェーンメソッドのアヴァランチ。
ピットインとしての紙の手帳
情報整理としては紙の手帳は必要ないが、自分のようなアクティビティホリックのような人間にとって「ピットイン」のような効果があるのだろうな、と最近感じる。
こざねとカードと一覧
こざね法が全体を一覧するための手法であるとすれば、カード法はむしろ全体を一覧しないための方法なのだと言える。
カードボックスを上から覗くとき、“本文"は遮蔽されている。カードを取り出して閲覧するときも、そのカードだけが表示されて、それ以外は隠蔽されてる。「全体の一覧」はカードボックスにはない。その意味を、デジタルツールに引き戻して考える。
「アウトライン」ができた感覚
この感覚に至る前も、もちろんWorkFlowyにはアウトラインという項目があったのだが、それは「この本で書こうとしていることが、なんとなくの順番で並んでいるだけのもの」という感覚だった。役には立つが、「骨子」とは呼べないもの。
“「アウトライン」ができた感覚"は、言い換えれば”「後はもう書くだけ」な感覚"となる。もちろん、実際にはそうはいかないけども、感覚として。
アウトライナーについて
プロセス型のアウトライナーは、OSによるファイル/フォルダと同じように情報構造を作り、それを操作できる。その上で、個々に保存された情報は、アプリケーションによる分断を受けずに、そのまま表示・操作ができる。
そのトレードオフとして、一つひとつの情報の表現や操作性は落ちる。
消したくないから残してしまう
アウトライナーに限らず、「消したくないから残してしまう」という状態がある。でも、実際心境としては、それは目にしたくないものであったりする。
対策はいろいろあるだろう。
「未使用」的な項目を作ってそこに移動させる。Gmailのスヌーズのような処理。Textboxのように実体と表示構造を間接的にする(消しても実体は残っている)。
固さの気付き
体の硬さと同じで、頭が固くなっていても自身でそれとは気が付きにくい。発想が要請されない環境ならなおさら。
こざねの感覚
こうしたメモを書き出すとき、外からバラバラの情報を「集めて」いるわけではない。そうではなく、自分の中にある幹や茎から実を捥いでいる。
つまり、メモ帳をちぎり取るという物理的な操作が、観念的な操作と呼応しているわけだ。
独学の不安定さ
独学は、どんな本を読めばいいのかわからないという入り口の不安定さ、本を読みそれを整理する作業継続の不安定さ、そうしてまとめた内容の確からしさについての不安定さを抱えている。逆に言えば、その点を意識してやっていけばいい。
入口に関しては、たくさんある本のどれを読めばいいのかわからない、そもそも有用な本の存在を知らない、どう読めばいいのかわからない、といった問題がある。そういうときに妙なセミナーを選びたくなるが、しかしそうしたセミナーは前述の問題をほとんど解決してくれない。
Twitterの断片性
もうちょっと拡張していえば、Twitterそのものが、URLを持つパーマネント=>カードを生成するノートツールなのだと言える。だから、ツイッタラーがカード法をやると相性が悪い。「もうTwitterでいいじゃん」という気になる。
分類せずに配列する、を一番ナチュラルに実行できるのがタイムラインというわけだ。
一方で、そうしたつぶやきをベースにした『ツイッター哲学』ではツイートに"見出し"かついている。『書くためのアウトライン・プロセッシング』でも書かれているが「見出しをつければアウトラインになる」。タイムラインからアウトラインへの変換。
やってあげている感覚
“自分の周りの環境は自分に対して最適化されているべきだしそうなっていない状況は間違っている、だから自分がその状況を是正するために何かアクションを起こしとしたら「やってあげているのだ」”という世界観は実情とのズレですごく大変だろうなと感じる。
執筆における12万字書くこと
文字を12万字書くだけなら、それは手間の問題だ。お手軽ではないが、複雑でもない。しかし、12万字で何かまとまったことを書こうとすると途端に複雑な作業もなる。「12万字」を素材として巨大な構造物を作る、となるともうお手上げだろう。
いかに不完全さを許容できるか
ほとんどのことは「いかに不完全さを許容できるか」という点にかかっている。イデアからの逃走。
“完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね”
完璧でもなく、現実でもなく、ビジョンから始める。ビジョン“から“始める。
はっきりダメだという
それはそうと、何かについて「あれはダメだ」と思っているときにそれを間接的に表現するのがスマートな感じがするけど、はっきり言っちゃった方が良い気がする。で、そういう「ダメだ」感を変えたいなら間接的に言うのではなく、真剣にそれが持つ良いところを考えた方が健康的。
「あれはダメだ」とはっきり言うことがされられると妙な理屈をこねくりまわすことになる。それよりも、「あれはダメだ。なぜなら」と書けば反証可能性が生まれる。つまり、議論が「ひらかれる」。そこから意見が変わることもあるだろう。理屈をこねくりまわすと、むしろそれが難しくなる。
はっきりダメだと言うことが回避されていると、こねくりまわされた理屈に対しても、こねくりまわした理屈がぶつけられる。だんだんと何を議論しているのかがわからなくなる。
言葉を濁し続けることで、思考もクリアではなくなっていく。
当たり前だが、人格を否定してよいという話ではないし、配慮が不要という話でもない。考えをクリアに伝える、ということだ。
部分を維持するから全体が機能する
言葉を濁し続けることで、思考もクリアではなくなっていく。
というツイートをした後で、これは「あるレイヤーがシンプルであるから、それを操作して高次のレイヤーを構築できる」と「こつこつリファクタリングをしないとバージョンアップが難しい」というのと同じ構造だな、ということを"発見"した。
「できる人にならねば」という価値観
できるビジネスパーソン的成功法は、「できる人にならねば」という価値観を強めることはあっても、弱めることはまずない、という問題を抱えている。もちろん、何の再現性も担保されていない以上挫折は必定で、そこから生じる自己尊厳の毀損がさらに「できる人にならねば」という思いを強める。
ノウハウは切り替えられても、価値観はそう簡単にはいかないうえ、苛まれているときほど視野が狭まって異なる価値観を見逃してしまう。
「今」をスタート地点にして少しだけでも望ましい方向に進もうとすることと、何かしらの「欠け」を埋めるために頑張ることは違っている。しかし、物を売るには「欠け」を強調するのが手っ取り早いのは間違いない。それが問題なのだろう。
Author rashita
LastMod 2021-11-13 (07f217f)