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第八十八回:Tak.さんとメモとシェイクについて by うちあわせCast

沈黙的表現

ツイートにおける「……」は、文脈が広い記法で、扱いが難しい。

言語的に言えば「沈黙」の表現なわけで、実際の沈黙と同様にそれをどう解釈するかの幅があまりにも広い。黙っているだけでは相手に伝わらないという以上に、相手の文脈で解釈される余地が広がってしまう。

その沈黙が、唖然なのか、激昂なのか、疑問なのか、不審なのか、感嘆なのかが、不確定に置かれてしまう。自分の意図の180度逆のこととして受け取られることすらある。もちろん、それでもよいならそれでもよい。

頭の中の「大工」が違う、というのはそういうこと。

知的生産における「規格化」をどう捉えるのか

知的生産における「規格化」をどう捉えるのか、という問題意識。

そもそも「知的生産の技術」というフレームが、一種の規格化ではある。

知的生産における「規格化」をどう捉えるのか - 倉下忠憲の発想工房

楽して稼ごうとすると失うもの

仕事で苦労することが偉いわけではないが、楽して稼ごうとすると見えない何かしらを切り売りしなければならないことはある。

もちろん、見えないから「実証」できる話ではないのだけども。

すべてがビジネス書になる

NFTが結局投機の対象になったように、あらゆるものが資本主義に飲み込まれていく中で、すべての物事は「ビジネス」になりえ、それについて書かれる本もまた「ビジネス書」になるのであった。しかし、そこに一点の希望があるとすれば(字数

論旨が追えない文章(★)

それにしても、一文一文の意味はわかるが、論旨がまったく追えない文章というのはあるわけだ。何が要因なのかはいろいろあるだろうけど。

書き手が論旨(≒アウトライン)を制御できていないか、あるいはそもそも論旨などないのか、どちらかが可能性として大きい。

デジタルノートとアナログノートは別のツール

デジタルノートテイキングの10年で理解したのは、アナログのそれとデジタルのそれはぜんぜん別のツールなのだ、ということ。にもかかわらず、ごく一部は共通的なことが言える、というのが全体の印象を歪めてしまう。

進捗の魔法

「少しだけでも手をつける」

─────────それが進捗の魔法。

複雑さとの付き合い

新しい機能を追加するときに、既存の機能との不整合が出てきたとして、それを別の新しい機能で解消する、みたいなことを繰り返していると、あっという間に全体の複雑性が手に追えなくなる。

逆に言うと、全体の複雑さがどうであっても、「今ここ」だけに注意を向けて、それを解消することはできてしまう。困難が分割されたかように機能してしまう。でもそれは問題を別の場所に送っているだけで、しかもさらに難しい問題に変換してしまっている。

要素の並び方は二軸は欲しい

「今日やること」リストの中で項目が上下に並ぶのは良い(必要なことですらある)。しかし、「今日やること」リストと「今週やること」リスト(あるいは別のリスト)が上下に並ぶのは、どうにも違う感じがするのだ。

むしろその二つは「横」に並んでいて欲しい。情報を「並べる」軸が少なくとも二つ欲しいのだ。

整理欲求とその解消

とっちらかっているさまざまなプロジェクトをまとめたい感じだが、これがつまり整理欲求なのであろう。

で、たとえば何か項目を作って、その下に配置すればいかにも「まとまった」感じだけども、結局押し入れにつっこんだだけと同じこと。何かしら「処理」しなければいけない。

タイムラインとツェッテルカステン

タイムラインは時系列という意味以外の「構造」は有していない。ただ話題が展開しているだけ。だからこそ記述しやすい。で、そこから文書に合わせた構造を作るのは別の作業。

https://twitter.com/pokarim/status/1455778414825070593

タイムラインも、思いついたことを何でも書いているわけではない。そのアカウントの雰囲気・文脈に沿ったものが(ある程度)選ばれている。その意味で、ゆるいテーマ(あるいは話題の連続性)がそこにある。

タイムラインに書き込むときに、「全体の構造」など意識しないだろう。それこそが大切で、脱(階層)構造的ということだ。でもって、それだけで結構なことが達成できる。個別のツイートを探しやすくすれば、さらに使い勝手が上がる。

人間と道具の相互作用

これは一方向の(つまりアフォーダンスな)影響でなく、相互作用的に意味が定まるようなところがある

https://twitter.com/pokarim/status/1455765967305273347

アプリケーションの意味を最終的に決めるのはユーザーなのだ。その上で、じゃあユーザーがどう「意味」を決めているのか、という話になる。少なくとも「ツール」デザインは、その視点がないとユーザーを置き去りにするだろう。一方で、生物は環境に適応する能力があり人間も少しはツールに歩み寄れる。

この両方向の作用があるから、この手の話は難しくなる。単純原理では、どこかにうまくいかない部分が出てくる。

特に、人間が情報処理をするツールの場合、それは脳の拡張となる。義手などと同じレベルで「使える」ようになって、思考の拡張をサポートできる。その「接続」は、違和感だらけのツールではかなり難しいだろう。直感的、というのもこの文脈において重要である。

人間は、「こういう道具だ」という認識において道具を使う一方、道具が示す「こう使ってください」に神経回路をある程度適応させることもできる。この二つの力が意識されていて欲しい。後者があるから、多少使いづらくても「慣れる」のだが、だからといって何でもいいという話にはならない。

とにかく、これを単一の原理性で解決しようとするのは、そうとう乱暴な話だと思う。

人間の情報処理はモデル化できない

シャノンの「情報」は意味を問わないからいくらでもモデル化できるが、人間の情報処理は同じようにはいかない。

ノードを結ぶ線の意味

ノードとエッジが何を示しているのかは個別に考える必要がある。

引かれる線の意味づけがブラックボックスになっている。だからこそ良い面もあるし、悪い面もある。

鏡への威嚇

他者に向けて問題を指摘する人が、まさにその問題を体現している現象。

医者の不養生とも違うし、ミイラ取りがミイラになるでもない。強いて言えば、ミイラがミイラ取りになる、という感じ。鏡への威嚇。

対立への介入が起こす対立

対立の構図を消すための介入が、新しい対立を生む、という構造がある。

「読めてしまう」読めなさ

読めなさは、むしろ「読めてしまう」として立ち上がる。言葉の多重性、決定不能性がまるっと消え去っていく。

システムの複雑さは美徳ではない

一つ上のレベルで複雑なものを構築したければ、そのレベルの要素はシンプルであった方が良い。極端なことを言えば、操作不能な要素を操作することはできない。

人は、別人になるためにブログを書く

https://twitter.com/Foam_Crab/status/1455713253280079877

客体化及び分析が、文章化を通じて行われることの効果の強さは、言葉の扱いが得意な人ほど顕著に現れるだろう。

100回繰り返してもいいけど、脳内でグルグル考えていることと、文章を(もっと言えば説明を)通して「考える」ことは、まったく違っている。効率とかではなく、別種の行為だと言っていい。

問題を「持ち出す」こと

ある程度広がった原稿についての部分的な検討があるとき、その記述だけを別の場所に持っていく。たとえばメモ帳に書く。そして、それを見ながら「考える」。アウトライナーがzoomでやっていること。

私たちは、見ながらでないと固定的・継続的に考えられないが、だからこそ見えすぎると考えられなくなる。

「それでも」のマインドセットと、「かろうじて」のマインドセットの関係性

https://twitter.com/rashita2/status/1454639064804585480

「なるほど」の含意

「あなたのツイートは拝読し、内容は概ね理解できたように思いますのでその旨をお伝えさせていただきます。とは言え、このリプライにリプライを返信してくださる必要はありませんのであしからず。では、よき日をお送りください」という含意が「なるほど」の4文字には込められているのであった。

おおがかりなこざね法

短期的なプロジェクト用のものとは違い、カード法のカードは5年とか10年単位で使っていくことになる。だからこそ、文脈に応じて情報の「かたまり」を取り出せるようにしておくのが吉。

あと、カード法にとって決定的に重要なのが「続けられること」。優れた技法でも続けられないなら蓄積にはならない。当たり前のこの話が、技法のみを検討しているときにば見えづらくなる。

あと、手法ではないけども、カード法とうまく付き合うには「アウトライン脳」からスイッチしなければならない。なんでも木構造に配置しようとする、というかそうなって当然で、できないと落ち着かない、というモード。

あまりにもそのモードは自然なので、別のモードがありうる、と気がつくには第二宇宙速度を出せるくらいの認知的エネルギーが必要かもしれない。

アウトライン脳でカードを使おうとすると、「おおがかりなこざね法」でしかなくなる。まあ、それはそれで別に構わないのだが、スケールの限界が当然生まれてくる。

複雑なアイデアの関係性

それはさておき、たとえばDoMAについて何か書く、という素材があるとして、それをDoMA単体でまとめるのか、バザール執筆法とセットにして(「DoMAとバザール」)まとめるのか、あるいは、そこにさらにもう一つ何かを加えてまとめるのか、といろいろ切り口が考えられる。この辺の扱いが難しい。

頭の中では、多重の可能性としてアイデアが存在している。重ね合わせの状態。それはどう「表現」されるのが望ましいか。

同期しなくて良いもの

Mirrorコピーは機能としては便利なのだが、だからといってネットワークに在中するものとアウトラインの中のものを「同期」すれば素晴らしい、とはならない。この点は『思考のエンジン』を精査して、再検討できると思う。

リンクを考えるタイミング

たとえばScrapboxでページを作ったとき、文脈を添えるハッシュタグしか付けられなかったとする。でもって、そのハッシュタグでわんさか関連するページが出てきたとする。そういうときは、「もう一段潜って」考えるタイミングである。今書いたページに近しいページを見つけて、それらを言葉でつなぐ。

カードもアウトライナーも、何も「頭をはたらかせて」なくても情報を位置づけられてしまう(それで整理した気持ちになる)、という特徴がある。

情報を得るときに「構造」の有無がどれだけ違いを生むかは以下のページを見るとわかるだろう。

https://scrapbox.io/rashitamemo/%E6%96%AD%E7%89%87%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0

2017年の自分が考えたことについて、2021年の自分がもう一度考える。これがいわゆるslip-boxとの対話であろう。

以下のページも単に「カテゴリー」と「アウトライン」をリンクにしただけだが、しかしこの二つの関係性はどうなっているのかという問いを誘発する効果がある。すると、このページから新しいページが生まれる。アイデアが連関していく。

https://twitter.com/rashita2/status/1454735434592882696

KJ法A型図解とB型文章化の両方が必要

以下の記事は、KJ法A型図解とB型文章化の両方が必要だ、という話に通底している。

https://note.com/kazu_kai/n/n2931db0ebcf2

でもって、B型文章化(のプロセス)の6号目までの段階でアウトライン・プロセッシングが活躍する、と位置づけられる。

オープンエンドとクローズドエンドのシェイクも、たとえばW型の問題解決に対応させられるだろう。

slip-boxのマインドセット

一つだけのアウトラインを使い、そこに情報を位置づけていく、という行為は、slip-boxのマインドセットに似ている。常に既存の情報に関連付けるようにする、という点において。逆に、inboxに放り込んでいるだけなのは、ツールとしては「同じ場所」でも関連付けの点で違いがある。

価値の不確定性

価値の不確定性から目を背けると、誰かが決めた価値のプロトコルに準拠するか、価値についてはまったく考えないことになる。しかし、その間の道もある。これがどう受け取られるかはわからないが、それでも良いものを作ろうと目指すこと。

前者ではイノベーションは起こりえず、常にn番煎じになるし、後者はフィールドバックサイクルが回らず、軸が立たなくなる。

軸とは、先駆的。静止的に存在しているものではなく、回っている独楽の中心のようなものだ。サイクルが回っているときのみ、観測できるものなのだ。

価値は不確定なので、どうなるかはわからない。「それでも」価値あるものを目指そうとすること。この「それでも」のマインドセットが、すなわち意志ではないか。

たとえることは、終わることではなく、はじめることである

「たとえることは、終わることではなく、はじめることである」

読者のことを考える

PVやらなんやらを目指さないことは、読者を無視することを意味するわけではないし、「読者のことを考える」ことは、読者の価値判断を一方的に決めつけることを意味するわけでもない。

脳内会議の実例

一週間分のツイートを振り返りながら、それらに見出しを与えるところまでは知的負荷に耐えられるが、それらをカード化する負荷はさすがに厳しい。

ああ、そうか。だから僕はこれらの「見出しつきツイート」を、定期的に振り返れるようにしようとしていたわけだ。そうやって、未来の自分に対して「困難を分割せよ」、を実践しようとしていたという。

これは要検討課題だな(ツイートを減らせばいいわけだけども)。

先送りしても、結局ドラえもん宿題問題が発生するわけだから、根本からre:デザインする必要がある。

  • A「それでは対策会議を行う。何かアイデアはあるか」
  • B「ぶっちゃけ、ツイートしたことなど無視するのが一番効率的ではないかと思われます」
  • A「たしかにそうだが……」
  • C「しかし、重要な論考を行っている場合もあるので、そのまま捨てておくのはもったいない気もするね」
  • A「それはたしかに」
  • B「だったら、ツイートしたものが重要だと思ったそのたびにきちんとScrapboxでページを作っておくのが一番です* ね」
  • A「正論ではある」
  • C「ただ実践できるかというと、厳しそうだよね」
  • ABC「たしかに」

みたいなのが脳内で定期的に開催されている。