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第八十七回:Tak.さんと『書くためのアウトライン・プロセッシング』について by うちあわせCast

BC023 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』 - by goryugo - ブックカタリスト

落ち着かないという駆動力

自身の経験からですが、 decentralized network はずっと落ち着かないです。その「落ち着かなさ」が、ある種の駆動力になりつづける、とポジティブに捉えることもできるかもしれません。

https://twitter.com/cube70148059/status/1454297251786887170

逆に言うと、各種オーガナイザー(セルフ/プロジェクト)は、ある種の「落ち着き」を呼び込むためのものだと言えるかもしれない。

落ち着かないという駆動力 - 倉下忠憲の発想工房

主題と逸脱

主題があると、その主題が要請する排他性、強弱(ないし主従)、順序が出てくる。「逸脱」とは、その要請/規範性から、逃れるものすべてを指す。

主題と逸脱 - 倉下忠憲の発想工房

問題は硬直性

トップダウン的弊害をもった企画案、というものは確かにあって、それがトップダウンに対する嫌悪感を醸成するが、トップダウンそのものが悪いわけではない。

トップダウン的弊害 - 倉下忠憲の発想工房

『仕事で大事なことは麻雀に学んだ』

  • だいたいは運だ
  • だからこそ細かい確率論が重要になる
  • 手順がすべてを決める
  • 自分が切らないと何も進まない
  • だいたいは運だ
  • だからこそ事前の計画がものを言う
  • 自分の行為は(見えなくても)他者に影響を与える

(まだまだある)

『仕事で大事なことは麻雀に学んだ』 - 倉下忠憲の発想工房

ツールは分業

単一のツールにまとめるために、ひねくれた方法を用いるくらいなら、分業させた方がよほどスムーズ。

ひねくれた方法は「やってやれなくはない」であり、それは自己満足と実用性のバランスがかなり前者寄りになってしまっている。

情報整理ダイアローグ連載 - 倉下忠憲の発想工房

出版された本は参照点となる

やっぱり、「本」が書かれると、「それ」について語れるようになるのが嬉しい。「本.に書かれていたこと」のような参照も可能になる。話がしやすくなる。オブジェクトが生成されるのだ。私たちはそのオブジェクトを使って、新しいオブジェクトの生成に参画できる。そして、輪廻は巡る。参照可能点ができる。

出版された本は参照点となる - 倉下忠憲の発想工房

アイデアを無理にカテゴライズしようとしない

たとえば以下の"メモ"は、「Scrapboxを使った知的生産術」と「情報のネットワーク論」のような話に位置づけられる感じがするのだけども、だからこそアウトライナーではうまく処理できなかった。どちらに位置づけていいか判断できないから。

https://twitter.com/rashita2/status/1453635938723061760

でも、それはアウトライナーの問題ではなかったのだ。単に、自分がこうした"メモ”を無理にカテゴライズしようとしていたことに原因がある。位置づけられないなら、単に並べておけばいいのだ。

二つのハッシュタグをつけて文脈を示唆するか、逆に、二つの上位構造の下にハイパーリンクを貼り付けておけばいい(実際はもうちょっと複雑だけども、とりあえず)。

アイデアを無理にカテゴライズしようとしない - 倉下忠憲の発想工房

slip-boxはただ起点があるだけ

Scrapboxでは、必ずしも「親」からページの作成が始まるわけではない。というか、その「親」という観点がすでに背後にカテゴリーを持っていると言えるかもしれない。情報の整理ではたしかに「親」は必要だが、個人のslip-boxではただ「起点」があるだけだ。

それをまとめるときに、カテゴリー/アウトラインが生成される。あるいは、カテゴリーやアウトラインが意識されるとき、そこに情報を「まとめようとする」情動が生まれる、とも言える。

slip-boxはただ起点があるだけ - 倉下忠憲の発想工房

ただ流れていく思索

Twitterはタイトルを付けなくていいから非常に楽に記述できるわけだけども、基本的に拡散方向にしか進まない。まとまらない。どれだけ数を重ねても、思索はただ流れていくだけ。

一方で、これは最近毎週定期的にやっているのだが、自分のツイートをエディタにコピペして、それにタイトル(見出し)をつけると、急にしまりはじめる。ちょうどこれは『書くためのアウトライン・プロセッシング』“にある"書いたことに見出しを立てればアウトラインになる"という指摘とピタリ重なる。

つまり、この点が「ストックとフロー」とよく言及されるものの差異に通じるのだ。保存の有無ではなく、「それ」と名指せる何かが自分の中に発生しているかどうか。

見出しを立てるとフックが生まれる - 倉下忠憲の発想工房

セルフオーガナイズツールのオーガナイズ問題

セルフ・オーガナイズのためのツール(セルフオーガナイザー)を、いかにオーガナイズするか、というのがセルフ・オーナガイズのやり方そのものに関係してくる。

→ルーマンのカード法とその思想の呼応

セルフ・オーガナイザーのオーガナイズ問題 - 倉下忠憲の発想工房

名前が重要なツールとそうでない情報整理ツール

名前=概念構築、というのが一つの必要な操作であり、それがあることによって、私たちは知識を「使う」ことができるようになる。バックグランドで数字のidを持っていてもいいけど、人間が使うには「名前」が必要。

小さなクレーンを作ることによって、より大きなクレーンを作ることができるようになる、という話と同じですね。

逆に、そういうのはフリーライティングにはまったく向かない。あと、いちいち名前を付けていられない雑多な情報を管理する場合も不要。

名前が重要なツールとそうでない情報整理ツール - 倉下忠憲の発想工房

後からとり出せるように文章で書く

紙の場合は、ユニークなIDを与えるうえで加算的なナンバリングが使いやすかったわけだが、デジタルデータならそこにこだわる必要がない。でもって、カードの並びが「このテーマに関するものだ」を明示する機能を持つならば、それを直接文章で示せばいい。

この場合、「後から間に追加するために枝分かれさせる」という操作は不要になる。単に、その新しいカードが、参照したい既存のカードとどのように関係しているかを示せばいい。

そうしておけば、自分が後から「そのテーマ」について参照したくなったときに、文脈込みでそれを取り出せることになる。

重要なのは、カード法は備忘録ではない、ということ。あるテーマについて、過去の自分と対話していくことを促す装置であり、「文脈」はそれを助けるためにある。情報を「分類」や「配置」するためではない。

「分類」や「配置」をしないのだから、本流とか分流とかも特に意味はない。単に後からその「文脈」に情報を追加できれば、なんでもいいのだ。

そして面白いことに、この「文章で書くこと」は、アウトライン・プロセッシングにおける「発想法」と同じなのである。

強いて関連付ければ、文脈=「線」ということだ。

後からとり出せるように文章で書く - 倉下忠憲の発想工房

wikiリンクは文章に埋め込める

リンクの形式自体は一種類だけども、wikiリンクは「文章に埋め込む」記述ができる。つまり、文脈を示せる。逆に言えば、ハイパーリンクの力を発揮させるには「文章で書く」ことを意識するのが吉。

wikiリンクは文章に埋め込める - 倉下忠憲の発想工房

自分で情報システムを組み上げていけるような本

「情報の力学を理解することで、どんな情報ツールを使ったとしても、自分で情報整理システムを組み上げていけるようになります」

みたいな序文がある本が書けたらいいな。

自分の根源的な興味が「自分が情報を扱えるようになる」であって、その他の要素はそれに従属するものでしかない。曖昧な一般論には興味がない。一方で、この「自分」は他でもありえたわけだから、そういう人に届く話もしたい。具体性のある一般化。

自分はたまたま知見を得ることができたが、そうでない可能性もあった。その「世界線」に介入するために、自分なりに情報をまとめていく、というようなスタンス。結果的にそれは「他者に向けた」ものになるんだけど、実際は「(パラレルな、あるいは可能性としての)自分に向けた」ものでもある。

自分で情報システムを組み上げていけるような本 - 倉下忠憲の発想工房

ツェッテルカステンにおけるナンバリング

個人的な見解ですが、ツェッテルカステンにおけるナンバリングそれ自体には強い文脈的な意味はなさそうです。 ・固有のIDを与えること ・話題が繋がっていることを示唆すること この二つの役割があればよい。

で、番号の振り方に二種類あるわけですが、基本は1.1から1.2の方式でこれを本流と呼ぶとすれば、1.1aは分流(ないしは枝分かれ)ですが、ここで言葉が持つニュアンスが混乱を引き起こします。つまり、1.1→1.2が話題の本線である、といった捉え方です。

が、そもそもトップダウンではないやり方でノート(カード)を取るのがこの方式の真骨頂だったはず。であれば、どちらの話題が「本流」かは判断できないはずです。だから、この「本流」というのはトップダウン的なテーマ設定とは関係なく、あくまで便宜的な呼び方にすぎません。

だったら、どう枝分かれするのかと言えば、順番です。自分がそのカードを書いた順番。つまり、基本的には、1.1→1.2とカードを位置づけていく。でも、どこかのタイミングで作ったカードが、1.1と1.2の間に位置づけたくなることがある。そういうときに、1.1aと別のルートを作る。そういう感じ。

分数的なものを使えば数字だけでも可能にはなるわけですが、それが長くなってくると人間の目では流れを追いにくくなってくる。ルーマンが独創的だったのは、アルファベットという別の順列の流れを使い、それを数字と組み合わせることで、二つのカードの「間」に無限の空間的可能性を産出したこと。

情報を文脈付けしながら、あとからいくらでもその「間」に情報を付け足すことを可能にした点。この点こそが、ツェッテルカステンにおけるナンバリングの妙だと思います。

人間の着想は、何かしらの文脈に沿った順番で思いつくわけではない、というのが各種カード法およびアウトライン・プロセッシングの一つの前提ではあるでしょう。

ツェッテルカステンにおけるナンバリング - 倉下忠憲の発想工房

専門家と呼んでみること

プロフェッショナルかどうかは別にして、そのことについて長年考え続けている人を「専門家」と呼んでみることはひとまず可能だろう。

書き手の頭の中が出てくる

人が文章を書くとき、よかれあしかれ「俺の頭の中ではこうなってんだよ、だからこう」的なものが出てくる。それが文章の個性や魅力につながる。好き嫌いもそこから生まれる。一方でアウトラインを先に立ててそのまま埋めていくと、そうしたものは鳴りを潜める。それが不気味に感じられることもある。

書き手の頭の中が出てくる - 倉下忠憲の発想工房

自分の発言のツケを支払う

僕はわりと周りの人にほいほいと「You、記事(本)書いちゃいなよ」みたいなことを言ってまわるので、その分実際の活動において、自分ができる範囲でフォローしております。これは自分が言ったツケを支払っているだけなので、あんまり気にしないでください。

これ、「You、書いちゃいなよ」と言いながら、そのセミナーとかコンサルとかをやりはじめると、あからさまなマッチポンプなので、僕はボランティア的にやるようにしています。

peer reviewというほどたいそうなものではありませんが、まあそんな感じです。

ちなみにマッチポンプがよくない、という話ではありません。「あからさまな」がダサい、というだけです。

(コピペ済み)

メモをじわじわ育てていく系ノウハウ

それはそうと、ビジネス書が「すぐに成果を上げる」方向に寄ったおかげで、「メモをじわじわ育てていく」というノウハウがかなり隅のほうに追いやられてしまった感があって、『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』は、それに対するアンチ・テーゼになりえそう。

「すぐに成果を上げる」とセットなのが「あらかじめ決まっている目標に向けて最短距離で駆け抜ける」というもので、これも『TAKE NOTES!』的なアジャイルな知的営為とはかなり異なっている。

どちらも「他の人に並ぶ」ときには有用だが、そこから先はプラスアルファが必要そう。

一方で、堀さんのライフハック観は初期の頃からずっと「小さな習慣を積み重ねる」を重視されているので、これは蓄積的な観点だし、だからこそ『知的生活の設計』にも自然につながっていく。その辺が他の(いわゆる)ライフハックとの違いではあろう。

ツェッテルカステンの番号付け

ツェッテルカステンの番号付けは、「位置づけ」であり「文脈づけ」である。

その意味で、Twitterにツイートを投稿することも「位置づけ」ではあろう。で、たとえば、連ツイにするつながりと、(自己)引用RTで自分のツイートに「かぶせていく」つながりの二種類がTwitterにもある。興味深い共通点だ。

ツェッテルカステンにおけるナンバリングの妙 - 倉下忠憲の発想工房

脱線しているときにこそ、線が生まれている。

脱線しているときにも、いやむしろそのときにこそ、「線」が生まれているのだ。

『書くためのアウトライン・プロセッシング』

脱線しているときにこそ、線が生まれている。 - 倉下忠憲の発想工房

「今日やること」と「今週やること」の関係性

「今日やること」のリストと、「今週やること」のリストがあるとして、前者は後者に包括されるし、そうすべきだという感じもするのだが、注意オブジェクトモデルだとそうなるとは限らない。

「(ハイパー)リンク」は、そういう場合に役立つ。

統一場モデルでは、年のリストがあって、その中に月→週→日、というリストが入れ子状に入ってくる。これは非常にスマートであるのだが、それが使いやすいとは限らない、というのが難しいところなのだ。

ものすごく単純に、週の切れ目と月の切れ目が合致しないことがある。だから、第n週とやる方がカテゴリー的にはすっきりするだろう。

たとえば、こうする。(10月は週/月の切れ目が重なるのであまり有り難みが感じられないが)。

あるいはこうしてもいい(別に誰にも怒られない)。

週番号のグルーピングならkakauのカーリーブラケットの方がしっくりくるかもしれない。

すべての行にメタ情報を持たせて、さまざまなビューによって抽出結果を表示できるのが、たぶん「最高解」なのだろうけども、どうあがいても「最適解」にはなりそうもない。

https://twitter.com/rashita2/status/1452446735087779844

「今日やること」と「今週やること」の関係性 - 倉下忠憲の発想工房

ルーマンは大きなテーマを持っていた

ルーマンは「分類」を持っていたというよりも、「大きなテーマ」を持っていた、というのが近しいか。

たとえば、こういうの。もちろんこれは結果的にこういう分類名になった、ということだろうけども、少なくともこういう「大きなテーマ」がなければ、すべてのカードが、1.からの地続きになってしまう。

逆に言えば、自分の問題意識について鋭敏だったとは言えるだろう。

自分も同様のテーマ性を意識することで、メモの管理が変わってくるだろうか。

タイル式も、ナンバリング方式と日付区分方式がある。

単純なナンバリングは、総数を明らかにしてくれる。系統的分岐は複数の大テーマを並行して扱える。さらに後者は、意思を持ってカードを位置づける作業が発生する。それぞれに効能がある。

MindGarden方式は素のデータがjsonなので直接編集しにくい問題があるな。追記していくだけならば問題ないけども、修正する用途だと若干面倒。

ルーマンは大きなテーマを持っていた - 倉下忠憲の発想工房

試行錯誤の方が大切

「hogehogeさんが試行錯誤のすえにたどり着いたメソッドA」というの、実はメソッドAよりもその「試行錯誤」のほうが大切なのでは説。

(コピペ済み)

眼鏡は世界を歪めるのか

視力補正のために眼鏡をかけている人は、レンズによって世界を「ゆがめて」みているわけだが、はたして眼鏡をかけていない状態が世界を「正しく」みていると言えるのかどうか。

自己啓発系の「本当の自分」に感じるひっかかりは、この辺にあるのかもしれない。外部足場の利用の否定が「本当の自分」だというのが仮に正しいとしても、その「本当さ」にどれだけの有益があるのだろうか。

眼鏡は世界を歪めるのか - 倉下忠憲の発想工房

二つ以上の情報ツールを使うことの効能

デジタルツールAからBに移す場合にも起こります。つまり、二つ以上のツールを使うことの効能。

これがデジタルツールのAX。あるいは「手間をかけるデジタル」。

https://twitter.com/tategamit/status/1452106327879294980

二つ以上の情報ツールを使うことの効能 - 倉下忠憲の発想工房

情報カード的知的営為の広がり

原稿用紙からワープロになったことで、書くことがより広い層に広がったように、情報カードからネットワーク型のノートツールになったことで、そこで行われている知的営為がより広がっていく、ということは一応考えられる。

(コピペ済み)

短縮の弊害

それはそれとして、対話と内省を時間をかけて進めながら自覚していくものを、一気に結論だけドーンとしても同じものではないだろうし、なんならその「短縮」に弊害すらあるのではないだろうか。

「時間」というものの価値をどう考えるか。

時短の弊害 - 倉下忠憲の発想工房

構造はアウトラインのときに立ち上がる

ツェッテルカステンのカード群は、アウトラインを作るものではないから、そこに立ち合われる「構造」(のように見えるもの)に意味はたいしてなくて、むしろカードの中に記述される他カードへの参照において「構造」が立ち上がってくる。これがごっちゃになるとややこしくなる。

『Take Notes』でも、アウトラインを立てるときはアウトライナーを使いましょう、と提案されている。デジタルデータだと、区別がなくて混ぜてしまえるように思えるけど、異なる形態の情報処理をしているのだ、という認識があった方がよさそう。

たとえば、アウトライナーでslip-boxを作るならこんな感じになるだろう。「間」に入れたいものが後から出てくるなら、それを間にグングンいれていけばいい。文脈的に直接関係があるならば、リンクでそれを示せばいい

すべてを「一列」に並べていく。

しかし、これらの情報は「つながって」はいるが、アウトラインではない。あるいは何かしらのアウトラインかもしれないが、それは具体的な成果物に向けたアウトラインではない。

むろん、『書くためのアウトライン・プロセッシング』の最後に、小規模・短期間のメソッドが紹介されていたように、「具体的な成果物に向けたアウトラインを作るためのカード法」というのもありえる。しかし、それは知のネットワークを拡大していくカード法とは少々やり方が異なってくる。

図解でインデントの深さが使われるが、そうするといかにも「親子」という感じや「文脈」の違いがイメージされるが、それは「あらかじめ構造を意図せずにカードをつながりだけで書いていく」原初のコンセプトを損なうことになる。

でもってそれは、ルーマンが各種の(社会)システムに上下を見立てなかった(システム間の階層性を破棄した)、ということとも関係している。彼の思想と手法には当然のように呼応があるわけだ。

もちろん、ルーマンの思想とぜんぜん違うカード法は十分ありえるので、それはそれで探究するのは面白そうだけども。

構造はアウトラインのときに立ち上がる - 倉下忠憲の発想工房