適切な精度の知的道具

エッジ(ノードをつなぐ線)で示される情報と情報の関係性は、一種類ではない。では二種類かというと、それも怪しい。一方で、モデル化するならば一種類で表現もできるし、二種類でも表現できる。で、行う知的操作によってその表現の「精密さ」が異なるのではないか、ということ。

「精緻であればあるほどよい」(大は小をかねる)とは言えないのではないか、ということ。実寸の地図は、「地図」としては機能しない、というのと同じ。

「情報の関係性を精緻に表現するゲーム」ももちろんあるだろうが、個人的に欲しているのは「ある知的操作を円滑に進められる」知的道具であある。よって、その知的操作において、どのくらいの「精度」が必要なのかを検討しなければならない。そして、執筆においてすら、知的操作は複数レベル存在する。

パーソナルなブログ

儲ける/大量のアクセスを狙う的なブログの影響力があまりにも大きくて、そのアンチテーゼとして「読者のことは気にしない」というモデルが生まれがちだが、別段その二分だけではない。読者のことを考えて書くが、しかし「儲ける/大量のアクセスを狙う」ではないスタイルがある。パーソナルなブログ。

「デイリーメモ」アプリアイデア

メモアプリアイデア。「デイリーメモ」。起動するとすぐにメモが書き込める。新しいメモは同じページに追記されていく。日付が変わると、新しいページになる。ページ単位で出力したり、遡ったりできる。以上。

「自分の考えに効果的な反証をぶつける」行為

「自分の考えに効果的な反証をぶつける」行為はいかにして育まれるのだろうか。

  • 1 何かを疑問に思う
  • 2 それについて仮説を思いつく
  • 3
  •  3.1 その仮説を補強する事実を探す
  •  3.2 その仮説の強度を確かめる反証を探す
  • 4 (3)の結果によって仮説/疑問にフィードバックを与える

この3.2の発揮は、獲得されうるスキルだと思うのだけども(3.1はバイアスの強い影響を受ける)。

2→3.1は、「思う」(ないし「思いつく」)で、「考える」度合いはそれほど高くない。

リスクをとることに関する言説

結果としてリスクをとっている人間が優位な状況にいるにしても、他者にリスクをとることを勧める言説に結びつけるのは何か違うだろう。

すべてが同じカードで、というわけにはいかない

梅棹はカードとこざねを分けた。ツェッテルカステンでもメインのカード箱とは別にプロジェクト用の箱を設けている。この点がきわめて重要であろう。箱はコンテキストを規定する。そのコンテキストに合わせてカードも書き換えられる。すべてが同じカードで、というわけにはいかないのだ。

浮沈式プロジェクト管理

フリーランスの人は、浮沈式プロジェクト管理(いま造語した)をやっている人が多いのではないか。ちょっと手をつけて後は放置。しばらくしてまたちょっとやりたくなったら、それを「引き上げ」てまた手をつける、のような

プロジェクト管理の三つの側面

個人におけるプロジェクト管理には、おそらく3つの側面がある。個々の"プロジェクト"の中で具体的に何を行うのかの制定、次いでそうした"プロジェクト"全体における優先順位の決定、最後に何を"プロジェクト"とするのかの確定。

一見すると最後がスタートな気がするが、実際は概ねこの順番になる。

「正しさ」への違和感

闇、反逆、異常。こうしたものが注目されるのは、光、統治、正常といったものの過剰さが引き起こす抑圧あるからだろう。サンデルの能力主義批判も、まさしくそうした「正しさ」への違和感があるわけだ。

だからこそ、サンデルは別の「主義」で単純に切り返すことができなかった。結局それをすれば光が代替わりするだけだからだ。その構図は、消費主義があらゆるものを飲み込んでいくのにそっくりなのかもしれない。

三つのキーワード

キーワードを整理すると、オープン、ネットワーク、ダイナミック、の3つだ。

セルフマネジメントのシステムをクローズ、トップダウンツリー、ステイティックにすると、ひどく窮屈なことになる。

英語のPersonalの感覚

たぶんだけど、英語圏のPersonalは、かなり「個別的」な響きがあるのだろうけども、日本語圏では単に「個人の」という意味にしか取られないのだろう。つまりprivateとの差異がない。

というか、全般的に日本のノウハウ情報は「Personal」との直面を回避しているようなところがある。だからこそ、拙著で「自分のノート」を作ることを提案したわけだけども。それはつまりPersonal note ということなわけで。

隣町の斉藤さん

隣町の斉藤さん「偏見を取り除くのは、知識じゃなくて、知識を取り入れようとしたときに自覚される自分の無知なのさ」

脳のエネルギー

脳が駆動するにもエネルギーが必要、というのはあたり前とは言え、実感は(あるいは理性は)それを見過ごしがち、というのはたしかにありますね。

ある悩み方(循環的な思考の壺)に嵌まり込んでいると、その間ずっと脳はエネルギーを消費し続ける。もともとエネルギーを大量に使う器官なのに、それがさらに加速する。終了条件を間違えたwhile ループでCPUとメモリと電力が占拠され続けるような感じ。