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BC022『英語の読み方』『英語の思考法』『伝わる英語表現法』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

第八十六回:Tak.さんとDrummerについて by うちあわせCast

究極的な二択のマインドセット

究極的な二択に人の精神を追いやる言説は、個人的には好ましく感じられない。

でもって、複雑さから距離を置けば、必然的にそこに決着することになる。

言い換えれば、決断主義とは複雑さの回避として立ち現れる。

強いリーダーシップの危うさ

不安を煽ることで、強権性の介入を誘導するというのは、やっぱりちょっとなぁという気がする。“強いリーダーシップ"は、そんなに単純に肯定されるものではないだろう。

繰り返すこと

リライト、リリード、リビジョン、リシンキング。なんであれ、繰り返すことだ。同じものが二度とない時の流れの中で、それに抗うようにre:すること。深い変化はそこから生じる。

流動性の変遷

〈断片からの創造〉では、断片/全体に段階性を見据えているが、おそらく流動性にも同じ観点が取れるだろう。

全体は不動であり、断片は浮動だからだ。断片と全体が切り替わるとき浮動/不動も切り替わる。

「浮動/不動」とあえて読みを揃えてみたが、口頭ではややこしくなってしまう。不動と可動にするか。

Slip-boxの当事者性

Slip-boxとスムーズに「対話」できるのは、その制作者に限られており、それはつまり当人の脳内情報ネットワークの「うつし」がそこにあることを示している。

認識のコンフリクト

長らくブログを書いてきたせいで、「あっこれで2000字くらいの記事が書ける」と発見する器官が脳内にできていて(エッセイ器官と呼ぼう)、それがオブジェクト/ネットワーク的なノートテイキングとコンフリクトをよく起こす、ということに気がついた。

そこから言えることは何かと言えば、単一の原理性だけで制御するのは相当無理が多い、ということだ。

たとえばルーマンは毎週締め切りがある原稿についても同種の対応をしていただろうか。

アンビバレントな欲望

大ざっぱな人間だからこそ、失われた半身を求めるかのように「きちっとしたもの」への憧れが生まれるのだが、しかしそれは「自分」でははないので、うまく手にできたとしても何だか違うという感じになってしまう。

アンビバレントな欲望と、どうしようもない自分への肯定。

### 小さな創造性に息をさせること

小さな創造性に息をさせること──僕たちが意識しておきたいこと。それを窒息させるものが多い環境ならなおさらに。

デジタルノート情報概論

僕たちは、デジタルノートの形式において、まず以下のスタイルを持つ。

  • タイムライン
  • リスト/再帰リスト
  • ネットワーク
  • マップ
  • データベース

その上で個別の要素は、

  • 単語/キーワード
  • センテンス
  • パラグラフ
  • 画像

を含み、さらに「リンク」が属性として付与される。

後はその組み合わせを考え、適切な情報体にそれを割り当てることになる。

* * *

恣意的な情報の抽出および配置(あるいは再編成)。それが要石となって、あとはリンクと検索で接合していけばいい。で、その「恣意的な配置」の表現力が課題となる。

慌てて実装しない

自作ツールで注意しているのは、思いついた機能を慌てて実装しないこと。まずその機能で何をしようとしているのかを考えて、それが他の機能で実現できないか、あるいは既存の機能と統合できないのかを考えることにしている。

で、これは何かといえば、ルーマンの slip-box と同じである。「既存のものとの関連性を考える」「slip-boxと対話する」。だから、思いついた機能などをScrapboxなどに書きつけておくのは有効。

僕たちには会話が必要である

本の読み方、ノートの書き方、家事や仕事の進め方、情報整理の仕方、時間の使い方……、「生活」にまつわるさまざまな行為はひとりで行われることが多く、フィードバックが得られにくい。何が良くて何が悪いのか。何が機能して何が機能不全を起こしているのか。なかなかわからない。

「他者」の方法に触れることは、多少なりともそのような自分の視点を動かす効果が期待できるだろう。その方法をまったく真似しなくても、自分のやり方を見つめ直す役には立つ。

僕たちに必要なのは、会話であろう。開かれた、緩やかな、楽しい語らいであろう。

取り返そうとすればするほど、取り返しがつかなくなる

「定期的に進める」という指針があるとして、そこで遅れてしまうと取り返すために作業量を大きく見積もってしまう。そして嫌気が差す。それが更なる悪循環を呼ぶ。だからこそ、遅れていても(むしろ遅れているからこそ)、定量的に進めた方がよい。

本の執筆が線形に進まないのと同じで、理解もまた線形には深まらない。

というか、理解が線形に深まらないから、本の執筆も線形に進まないのではないか。

### 「読む」と「考える」と「書く」こと

『すべてはノートからはじまる』の表現を使えば、読むことを「思う」だけで処理している人は、そのときの「思い」に呼応したものだけにしか反応しない。流れていくものがあり、そのときの自分に反応できるものだけに反応する。

つまり、自分が知っていることを確認しておわる。共感が終着点。新しい考えには至らない。

その「外」に出るには、わからなかったことについてスルーするのではなく一度立ち止まって考える必要がある。でも、わからないのだからすぐにはわからない。時間をかけて取り組むことが必要。

同様に自分が思ったことについても、改めて考えることで、その「思い」の意味が明らかになる。自分の考えの傾向や抜けている点などが、はじめてそのときわかってくる。

なんにせよ、「今すぐ処理できる」ような直感的情報処理ではない。だから書き留めておく必要がある。足を止めて書き留め、書き留めたことについて「考える」。そうやって、ようやく自分の理解の「外」に出ることができる。

ノートをとるとは、つまりはそういうことだ。

『ブログ生活の方法』

https://twitter.com/Foam_Crab/status/1449191449023684609

一応解説しておくと、一回一回の記事(=文章)が書けるかどうかではなく、そうした行為を継続的に続けていく上で生じる困難をどう解決するのか、を検討した内容になる。

企画案

『タスクは積むな!横に並べろ!』(言ってみただけ新書)

「緊急・重要」マトリクスツール

「緊急・重要」マトリクスは有名だが、それがUIに実装されたタスク管理ツールはあまり見かけない。2×2のマトリクスに「やること」を配置していくようなツールがあってもいいのでは。

斬新と王道

斬新なものを目指すものが結果的にすごくマンネリや陳腐さに陥ることもあるし、王道を真っ直ぐに目指すものの中に見たことのないような新しさが宿ることもある。

自分のシステムの堅牢性

自作のシステムは、自分でコードを書かない限り、永遠にアップデートされることはない。その分、自分の思惑の外で勝手に機能が変わってしまうこともない。

再帰の力は恐ろしい

金太郎飴的なことしか言えないのは仕方がないにして、その言説の中に「皆、金太郎飴的なことを言おう!」というのが含まれていると地獄が始まる。再帰の力は恐ろしい。

ツールが思考を制約する

非常に懐かしい感じのデザイン。

http://big.or.jp/~talk/t-club/

こういうページを辿っていると、いかに私たちが「ブログ」というCMSによって、ページデザインを制約されてきたのかを痛感する。

行動を制約されていたのではなく、思考を(ないし発想を)制約されてきた、ということ。

二つの「オブジェクト」

ひと塊の情報に輪郭線を与える「オブジェクト」と、それよりももっと独立性が意識された「オブジェクト」は異なる、と。

頭の柔らかさについて

思い込みはゼロにできないにせよ、その強度が高い状態だと、文章を読んで新しい情報を得ることも、コミュニケーションを回すことも、アイデアを創出することも難しくなる。体の柔軟性と同様に、頭の柔らかさは、さまざまな「基本動作」に影響を及ぼす。

たぶん知識とか回転の速さとか発想法とかのはるかに手前にある話だと思う。頭が柔らかいかどうかで、全般的な知的プロセスの効果が変わってくる。

でもって、そうした柔らかさを手にする第一歩が、「自由に」(あるいは不真面目に)何かに取り組むことだ。

ディティールのひだの奥にある豊かな抽象性

ディティールのひだの奥には、豊かな抽象性がある。