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第八十五回:Tak.さんとAX(アナログ・トランスフォーメーション)について by うちあわせCast

自分の文脈からの脱出

「書かれていない」ことを読んでしまう。自分の文脈が強すぎて、そこから出ることができない。そして、その自覚はない。

「思い込み」なのだが、思い込んでいるその状態はまったく自覚されず、自分の読みこそが正しいという地点に止まり続ける。それは実に普遍的に生じている。

というか、そういう読み方がデフォルトであるとして、いかにそこから脱出できるかを意識するかどうかに読解における違いが生じるのだろう。

自分の文脈からの脱出 - 倉下忠憲の発想工房

それはウィンウィンではない

「君の取り分1で、俺は100。両方利益あるからウィンウィンね」というの、もちろんウィンウィンでもなんでもないわけだが、そういうのはよく見かける。

ウィンウィンがどうとかよりも、搾取はあらゆるコンセプトを飲み込んでいく、ということなのだろう。搾取というコンセプトそれ自体に搾取性がある、というか。

あるいは、搾取ですら「善行感」を必要とする、とも言えそうだ。

それはウィンウィンではない - 倉下忠憲の発想工房

二つの間の道

マス受け狙いと、自分の好き勝手の二択ではなく、その間の道がある。ただし、険しく難しく道である。

言語化の塩梅

理解していないとうまく書けないが、身体化された状態までいくと今度は言語化が難しくなる。

ひねくれとの付き合い方

ある種のひねくれ方は避けがたいものだし、それを逆向きにひねって「正常」にする必要はないけども、自分でそれに気がついたときに開き直るのではなく、さらにひねると面白さが出てくる、気がする。

与えられることは当然か

「与えられることが当然」という世界観の場合、うまくいっていなければ「与えてもらえていない」という不足の感じを覚えるだろう。逆にそれが当然でなければ、うまくいっているのはほとんど奇跡みたいな状況のように思えてくる。

知的な力

知的体力と、知的忍耐力。

わかるように言う

「伝える」というのは「わかるように言う」ことである。

いかにして本を書くのか

「いかにして本を書くのか」という問いが多重の要素で構成されつつある。

まずトップダウンとボトムアップがある。そして日々のメモと執筆のメモの関係がある、最後に、テーマの脱構築。これをいかに融合させるか。

「書かないで、書く」を必要としない領域で書く。

ライフハックは何のために行うのか

ライフハックや仕事術は「何のため」というところから問い直される必要があるだろう。

公正世界仮説的なもの、自己と他者の関係、セルフヘルプの流れ、あたりも交えて。

小さな創造としてのプレイリスト

現代の音楽を聴く若者にとって「プレイリスト」がいかなる位置づけを持つのか、興味がある。

自分の感覚では、プレイリスト(カセットテープ、MD、CD-R)の作成は、一番小さく身近な創造であり編集であった。現代も同様だろうか。

いろいろな音源から一つのテープを作るのは、どこか背徳的な創造的喜びがあるような気がする。背徳的というか、そこで何かしらの主従がひっくり返るような感覚がある、というか。

すべての元凶

「いいかげん他人を物のように見るのはやめないか。それがすべての元凶なんだから」

単一の原理性の限界

一つ言えることは、単一の原理性だけでは、どこかに無理が生じる、ということ。

大人は背伸びする

「知的な背伸び」という話があるが、全般的に大人というのは背伸びしている人たちのことなのだろう。

諦めるためのエネルギー

はじめから望んでいない(可能だと思っていない)ことは、「諦め」られないわけで、諦めることにはエネルギーを収めるためのエネルギー的なものが必要なのではないか。

失敗が宿命づけられた

誰にも伝わらないからこそ、表現を尽くして誰に伝えようとする。

それは何も約束してされていないし、むしろ失敗が宿命づけられている。でも、それをやるのだ、ということ。