読み書きと規範性

『ライティングの哲学』と『すべてはノートからはじまる』は、「書くこと」を共通点にしているが、並行して「規範性から自由になる」というテーマも共通している。しかもその"自由"は、やや複雑な"自由"でもある。

その共時性はたまたまというのではなく、「書くこと」に付随する普遍的な課題なのでもあろう。

でもって、『独学大全』は、「読むこと」に付随する規範性からの脱出だとも言える。頭から終わりまで"きちんと"読むことだけが、「読む」のではないのだ、という。

プロジェクトの有限性

アイビー・リー・メソッドでは「やること」を一日6つに絞った。であれば、一定期間の「プロジェクト」にも上限を設けるのが適切ではないか。そこに再帰性がないとしたら、何が原因だろうか。

どこまでが能力主義なのか

サンデルの「能力主義」への批判はだいぶ対象が広い気がする。

たとえば教育を浸透させても格差は縮まらず、むしろ広まった、というのは能力主義への批判とは異なるのではないか。

ものすごく当たり前で、ありえないほど重要

「ものすごく当たり前で、ありえないほど重要」

ということが世の中にはたくさんある。

データの変色

イデオロギーに陥っていると、客観的なデータを示されても「変色」してそれが見えてくる。『すべてはノートからはじまる』では、自分の意図からの逸脱、ということを述べたが、たとえば「自分の人生を思い通りにしようとする/できる/しなければならない」という信念があると、やはり変色が起こる。

どうやっても整ってしまう

キッチキチに文章を詰めることを経験していると、もろもろを放り出したとしても、ある種の作法が無意識レベルに残っていて、テンデバラバラということにはまずならない。そもそも、意識的にワードサラダを紡ぐことの方が難しい。

自分ひとりではどうしようもないこと

間違ったフィードバックというか、歪んだ成功体験は、当人が自力でひっくり返すのはかなり難しい。

書こうと思うなら、いくらでも細かいことは書ける

分量という有限性がないと、僕みたいな人間はどこまでも「ちなみに」を展開してしまう。あるいは、細部を詰めすぎてしまう。

書こうと思うなら、いくらでも細かいことは書ける。それは、ちょっと神経症的ではあろう。

lateralな

lateral reading やlateral thinking があるのだから、lateral writing があってもよいだろう。

検索特化

検索に最適化すると、比喩的な表現のタイトルが死滅する

「知ってるつもり」を打破するもの

自分がよく知らないことについては、うまく書けない。でもって、その「うまく書けない」という事実によって、自分がそれについてよく知っていないことか理解される。その理解は、「知ってるつもり」の世界で生きている私たちにとって得難いものである。

いかに生きるか

生の一回性と偶然性を引き受けること。

今の生からの逃避ではなく、変化を求めること。

「おせっかい」はあってもいい

あと思うのが「おせっかい」ってダメなことではないんだよ、ということ。必要な助けを自分で求められる、とは限らないわけだから。もちろん、本当におせっかいになってしまう結果はあるだろうけども、だからといってそれを根絶するのがよい社会とは思えない。

すべての場所には人がいる

ディスプレイの向こう側に人がいるように、本の向こう側にも人がいる。

本に助けられた感じがするなら、そらは人に助けられているのだ。物でも空間でもサービスでも同じ。その向こうには見えなくても人がいる。それらもまた「巨人」なのだ。

一方で、「事件」は人が見える。まさにその人の問題であるように感じられる。よって、僕たちの認識は偏る。自らが乗っている巨人の肩に人の成果を見ず、人が起こした悪いことだけを捉えてしまう。相当にバイアスがかかっている。

手もとに置いておきたい本

たぶんメルカリなどによって、買った本をすぐに(それも一冊単位で)売ることとそれを買うことがすごく身近な行為になっているのだろう。そうすると、パウチをちゅるちゅる吸い込むように情報摂取してはい終わり、みたいな本は、そういう経済圏で循環しやすくなる。

本の情報がそうやって循環していくのは好ましいことだし、それによって露出が増えるメリットもある。ただ、そちら側が強くなりすぎると著者の食いぶちは減っていく。

となると、一度読了しても手元に置いておきた本を目指す、ということになるだろう。目指しただけで可能になるわけではないけれども、一つの指針としてはそうなるだろう。