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BC021 『幸せをお金で買う5つの授業』 - by goryugo - ブックカタリスト

第八十四回:Tak.さんと最近のアウトライナーについて by うちあわせCast

ブルシットな管理の転移

ブルシットな管理しか受けたことがなければ、その人が「自然」に行なう管理もブルシットなものになるだろう。

着手

手をつけること。

行為の起点と終点の存在論的曖昧さ。どの時点から行為は「はじまった」と言えるか。あるいは「終わった」と言えるか。判然としない。

* * *

人は自然に自身の行為の結果をシミュレートしている。億劫さは、その「演算結果」として算出される。だから、「えいや」と取りかかる。着手する。思考を切断するために、実行に移る。

* * *

2,000字書く「目標」があるにして、300字くらいしか書けない感じがするとき、その作業に取りかかれない精神状況がたしかにある。

300字 or 0字 なら明らかに前者を選択すべきなのだが、そういう合理的な比較は起きない。むしろ、2000字 or 300字 という比較が支配的になっている。

ギャップが知らせるもの

何かを創作したときなど.自分の作為だけではそのすべてを説明できないことが起きる。そのギャップは、何かしら名状しがたいものを直覚させるのではないか。

「すごい」の感覚

「隣の芝生は青い」とは少し違うが、「“すごい"は常に他に向けられる感覚である」ということは言えそうな気がする。

電子的なアウトライン

「電子的なアウトライン」ということ。アウトラインが電子的に実装されることで、フレキシブルさを得るということ。紙上のアウトラインとの大きな違い。

アウトライナーのアウトラインは、半分はアウトラインでありながら、もう半分ではアウトラインではない。準-アウトライン状態。

ガチャ

「〜〜ガチャ」という言葉遣いは、いわゆるガチャガチャを知っている人と、ソシャゲのガチャに慣れ親しんでいる人では、その意味合いがかなり違っているだろう。

名づけることの重要性

「名づける」という行為はとても大切で、だから『すべてはノートからはじまる』ではいくつかの技法名を空欄にして、いわば名づけの練習問題とした。でもって、巻末で少し触れた「観察・型発見・応用」というノーティングの基礎の「型発見」も名づけと同じ知的作用になる。

(ちなみに、「観察・型発見・応用」もこれだけで本が一冊書ける話)

記録を残し、そこから型(パターン)を見つけ、それに名づけることによって再利用可能な形にすること。その道行きの先に、他の人でも使える「道具」が生まれてくる。その意味で、ノート作りと本作りは相似関係にある、というのがすべノーの構図。

ちなみに、梅棹らの著作を読んでいると、彼らの間ではノウハウに関する情報交流が盛んであったことがうかがえる。そうした交流によって、個人に閉じ切った「俺々殺法」でもなく、はじめから一般向けに調整されたマニュアルでもない、その中間的な技法が創出されたのだろう。

たとえば、それをインターテクニックと呼ぶならば、インターネット時代こそ、まさにそうしたインターテクニックの豊饒な時代ではないかと思う。もし独学の同好の士と出会えたのならば、そうした技術に関する情報交流を行い、自分たちにとっての『知的生産の技術』や『独学大全』を志すのも一興だろう。

技法は、これまでも作られてきたのだし、これからも改良されたり、新構築されたってぜんぜん構わないというスタンス。おそらくそれが「巨人の肩に乗る」ことのもう一つの意味合いだろう。

読書のブーム

基本的に読書は雑食なのだけども、今は新書を読む!とか、ここ最近はずっと小説ばかり読んでます、みたいな偏りというか周期みたいなものがある。

それはそれとしてライトノベルは通年で読んでいるが。

何かをしないではいられない存在

「小人閑居して不善をなす」という言葉はかなり古くからあるみたいだけど、かなり古くからそういう事態が観察された、ということなのだろう。

それくらい人は「何かしないではいられない」ということなのだろう。エネルギーの向け先が必要。

読書人生

いろいろ似た言葉に触れながら考えたが、自分の活動に一番しっくりくるのは、研究でもなく、独学でもなく、読書であった。あるいは読書とノート。

少なくとも自分でいえば、「知的生活」ではなく「読書生活」である。

だって、ただ本を読んでいるだけだから。あるいは、少なくとも基礎たるエンジンはそれ。

だから私が欲しいのは、「知的生産手帳」ではなく「読書手帳」なのだ。

ノートの基本技法

人間は「これは大切だ」と思ったことでも、だいたいすぐ忘れていく。だから、毎日目にするツールにそれを書き留めたり、リマイダーをセットしてその文言を自分に知らせるようにする。ノートの基本技法。

本に関する言及

『伝わる英語表現法』の動きを見ていると、昨今「出版不況」と言われているものは、案外「本に関する言及」の不足なのかもしれないな、という感じはする。

価値を見出そうとしている人

「たくさん本を読んでいる人」にも、好ましく感じる人とそうでない人がいるな。引用ばかりで、口をつけば批難している、という人は私の中では後者な感じ。

というか、総合的に「価値を見出そうとしている人」を好ましく感じているだけかもしれない。

昔の時間の使い方

それにしてもTwitterをやるまえの自分はどのように一日を過ごしていたのか、もううまく思い出すことができない。たぶん、今よりもずっと本を読んでいて、メモをノートに書いていたことは間違いないが、その方が「適切」な時間の使い方なのかはわからない。ひどく調和的ではあったのだろうけども。

Twitterのタイムラインの二重性

ニュース的、ライムライン的な刹那の更新に浸かっていると(あるいはむちゃくちゃな忙しさに巻き込まれていると)、そのような歴史性(変容を伴うプロセス性)についてのイメージが弱体化してしまう。だから、「自分のノート」を作ることに意義が生まれる。現代的な意義が。

そう考えると、Twitterのタイムラインは二重の意味を持っている。刹那的に更新される押し寄せる情報的性質と、自分のつぶやきを過去にわたって振り返れるノート性との二つが。

欲張りフィードバック

文章や本はその価値を書き手が確認するのは難しい。だからフィードバックが欲しいのだけども、けなされてばかりはつらい。基本的には好意的に、しかし問題点は指摘して欲しい、というわがままな欲求がある。

逆にいえば、もしあなたが書き手で、そのような読者と巡り合えているならば、それはとても幸運で、幸福なことだと思う。