2021年09月11日までのツイートノート
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BC020『理不尽な進化』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト
自分と議論
普段から、だいたい何かを思いつくと頭の中の別の自分に(論理的に)フルボッコにされているのだけども、それは非常にS的でもありM的でもある、不思議な感覚だ。
SとMも一定の合意があって成立する関係なのだからして、そういうフルボッコにする自分を他者に向けて発露するとロクなことにならない。論破とかいって喜んでいる人は、そういう状態なのだと思う。
書くことは無駄に思えるが無駄ではない
いったん書いてみることで、そのことについてうまく考えられるようになる。新しい考えが頭に浮かぶ。すると、書いてあることがいかにも無駄なものに思える。しかし、そうして書いたからこそ起きた変化なのである、ということは念頭におきたい。
新しいことを言ったつもり
調べる範囲を狭くすれば、自分は新しくことを言った、という気分にはなれますね。
本の書き方の難しさ
それはそうと「本の書き方」を人に尋ねられたとして、うまく答えるのは難しい。人にはいろいろ凸凹があるから。そういう凸凹を一旦無視してそれなりに共通的に言えること、みたいなことはアドバイスできるけども、それはその人の凸凹を解消したりはしない。
だから、何から手を付けていいのかわからないのでアドバイスを求められているならば多少役立つことは言えるかもしれないが、挫折なしで進められる方法を求められている場合はお手上げになる。
「誰かのせいにしたい」気持ち
たぶん「誰かのせいにしておきたい」という欲求が普遍的にあるのだろう。そうしておけば、それについてもう考えなくても済むようになるから。思考資源の(ある種の)最適化。
やるべきことをやる、できることをやる
ぼくたちは自分の畑を耕さなきゃならないし、余白が足りなくてもそこに書き残さなきゃならない。
私たちの脳内の輪郭線
「こうであるだろう」と「こうであるはずだ」と「こうであるべきだ」は、論理的には異なる。しかし、私たちの脳ではどうだろうか。その輪郭線はそこまではっきりと区別されているだろうか。
吸い込まれる規範意識
規範意識は、「よし規範意識を育むぞ!」のように意識的に醸成されるのではなく、さまざまなものに付着していて、知らない間にそれを吸い込んでしまっている、的なものであろう。
物語を自分で語る
アウトサイダーは、自分のために語られる物語を持たなかった存在で、それはつまり自分で物語るしかなかった存在だと言える。
そういうときに「自分で物語っていいんだ」という発見があるかないかが、結構ディープな違いといえる。
ノウハウ書の書き方
個人向けのノウハウ書の書き方は、新しいものがあってよいだろう。少なくとも、これまではこのように書かれていたのだから、これからもこのように書かなければならない、という拘束は慣習的なものでしかない。ぜんぜん違った形があっていい。
そのように、昨日の繰り返しでない明日をイメージできること。「あたり前」を上書きしていけること。それが樋口恭介さんがおっしゃる「未来」ということなのだと思う。
時間を使うこと
「時間を使う」という姿勢に親しみがないと、丹念に調べてから発言するのではなくぱっぱぱっぱと思いつきを連発することになるし、更に言えばそうした発言をする人たちを積極的にフォローすることになる。調和の取れた循環構造がそこには生まれるのだろう。
時間に注意を向けること
ユーザー自身が最初に思いつく構造が自分にとって使いやすい構造であるとは限らないし、他の人が使っている(あるいは提唱した)構造が使いやすいとも限らない。
僕たちは、時間というものを大切にするあまり、むしろ時間をうまく使えていないようなところがある。目の前にあるものをすぐに「答え」だとしてしまう。
ノートを書いていくとは、プロセスに注意を向けることであり、時間をかけて問題に取り組むことである。目の前にある答にいつでも鉤括弧をつけるための方法なのだ。
「知の営み」と表現するとき、そこには避けがたく時間の感覚が、あるいは継続の感覚がある。
別の言い方では、ノートをとることは、歴史を刻むことでもある。意識の中では、今こうしてあるのはごく当然のことのように思えるが、ノートや手帳を読み返してみると紆余曲折あったことが痛感させられる。何かが違っていれば、ぜんぜん別の人生であった「かもしれない」性が立ち上がる。
そのような歴史の偶然性は、ある種の謙虚さと倫理観を連れて来るだろう。重要なのは、選択の自由が「本当に」あったかどうか、という点ではない。「かもしれない」という気持ちが立ち上がるかどうかなのだ。
この話はブックカタリスト20回の話とも関係している。歴史は見失われやすく、そうなったときひどい傲慢さが立ち現れる。
情報整理ツールの難しさ
ユーザー自身が最初に思いつく構造が自分にとって使いやすい構造であるとは限らないし、他の人が使っている(あるいは提唱した)構造が使いやすいとも限らない。
だから重要なのは、いかにユーザーがそれを変えていけるか、変えていきやすいか、ということになる。事前に緻密に作り上げられるほど、むしろそれは難しくなる。
DoMAは、一応WorkFlowyの使い方として出発はしたが、情報整理ツール全般に敷延できる「方法」だろう。むしろ、そう位置づけたほうが見通しがよくなる。
逆接がないプログラミング
考えてみると、プログラミングにおいてはある行と次の行が逆接でつながっている、ということはない。ある意味すべてが順接だし、それはつまり順接ですらない(実行順に並んでいるだけ)とも言える。
if 文もあるが、それは実行順(行)の制御であって、行と行の「内容」が順接ではない形で表現されているわけではない。
たぶんこの話と、パラグラフ・ライティングの話はつながっているのではないか。
合目的的になる
話をきれいに組み立てようと整えると、どうしても合目的的になりすぎるきらいがある。
ノウハウが人を苦しめるということ
別の見方をすると、人に優しいノウハウは書き手が読み手を制御/誘導しようとしていない、ともいえるだろう。そういう能力が高い書き手ほど、読み手を苦しめがち、ということがあるのだと思う。
そういう本を読み終えると、「なるほど、たしかに」と意気揚々となるのだが、実践すると無理が露呈する。しかし、「なるほど、たしかに」があるから、現実の自分を主体にできない。
説得的に書こうとすればするほど、その構造にはまる。そうではない形で、ノウハウを語ること。むしろ、まっすぐに語ること。
なんというか、化学調味料のせすぎというか、通販番組みたいというか、そこまでいかなくてもいいし、むしろ(そういうのが溢れ返っている時代においては)逆に新鮮さもあるかもしれない。
「仕事をうまく進めたいなら、hogehogeしましょう」と説明してしまった瞬間に──その内容がどれだけ正しいものであっても──こぼれ落ちてしまうものがあるのではないか、という感触がある。
そういう説明の方がすっきりしているし、受け取りやすくはあるのだけども、その受け取りやすさこそが問題なのではないか。そんなに因果はまっすぐにつながっていないぞ、という予感がある、というか。
つまり、あらゆる説明において単純化は欠かせないが、「その因果はまっすぐにつながっていないぞ」という理解が重要な局面では、もちろんそれを省略してはいけない、ということだ。
わかりやすく伝えるための単純化は必要でも、結果として情報の受け手が、対象そのものを「単純なものだ」と理解してしまうと、現実との齟齬が大きくなりすぎるし、より深く知ろうとする動機付けを失わせてしまう。でもって、その弊害が一番大きいのが「自分」という対象であろう。
物語は語られるためにある
簡単な話だ。物語は、語られるためにある。物語は、出発点からして他者を必要としている。むしろ、他者がいるから物語は要請される。だから、他者を排除するものすべては、物語として歪んでいる。僕たちは、そこから話を始めないといけない。
良い按配の自己肯定感
単純に考えて自己肯定感がフルになっている人と、フルじゃなくて「自分もまだまだですな」感がいくらかある人なら、後者の方が健全っぽい気がする。
その話と、少し不完全さも認められないでひどく攻撃的な人が反面自罰的でもある、というのは近しい気がする。
いつまで経っても完全ではない
思考もコミュニケーションも、完全ではないし、それに至ることもできないだろう。だからこそ、断続的であれそれを続けていくことが大切になる。
ちょっと違うという感覚
リストツールでも、カード・付箋ツールでも、テキストエディタ型ツールでも、自由筆記ツールでも、何かしら「ちょっと違う」のだけども、じゃあどういうツールがよいのかは明確にできない。
自分と世界を調節する
たとえば、ある人が「飽きやすい」傾向を持っているとして、飽きないように努める方向と、飽きることを前提に運用を考えていく方向があるだろう。どちらもアプローチではあるが、前者はどうしても「飽きることは悪いことだ(だから超克しなけれいけない」)という価値観がセットになりがち。
もしそれが、当人がさまざまな経験を経て出した結論ならばよいのだが、そうではなく単に社会通念だけで構成されているのならば、具合が悪い。
もし超克できなければ、「超克すべきものを抱えたままの人間」として自己が認識されるし、うまく超克できたとしても、他者へのまなざしとしてそういうものを抱えたものを見下してしまう状態が残る。
「すべてをそのままに受け入れなさい」でも「人間の正しさは社会通念に1mmのズレなく合わせるものだ」でもない、そこにある人間を前提とした上で、なんとか社会と「うまくやっていく」方法を探る、というアプローチ。人間的、あまりに人間的なアプローチ。
世界の複雑さを愛する
世界の複雑さ(ままならさ)を受け入れることと、世界を愛すること。
単一主体の原因説
単一の主体にすべての原因を求めているなら、視座としては陰謀論と同じであろう。
でもって、極端な「解法」しか目に入らない、という点もあるだろう。なにせ巨悪があるのだから、それを滅する革命が要請される。そして、その「予定」通りに進まない世界を憎悪する。
たぶん、何かが重ねられているのだろう。物事の見方はフラクタルなものだから。
でもって、たいていそういう言説はステレオタイプな言葉遣いで満ち溢れている。世界をその目で見ていないからだろう。
リーディングの哲学の切実さ不足
単純に考えれば「リーディングの哲学」も想定できるし、実際それは可能であるのだが、ライティングほどは切実さを覚えないようなところがあるかもしれない。なぜなら書けないで困ることは実際的にあるが、文章が読めないで困ることは体感されにくいからだ(識字とは別の話だ)。
読めていないけども、それと気がついていないことは多々あるし、読解が困難なものを読まなければ日常生活が送れない、という事態も少ない(もう一度言うが識字とは別の話だ)。「あぁ〜〜もう〜〜〜書けない」のような困難には遭遇しにくい。僕たちはあっさり読めたことにしてしまうのだ。
Author rashita
LastMod 2021-09-11 (5ce6574)