ポッドキャスト

BC019 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

第八十二回:Tak.さんとアウトラインとは何かについて by うちあわせCast • A podcast on Anchor

道具と身体化

道具が道具として役立つときそれは道具ではなくなる。いや、それは単純すぎるか。まず「道具」の段階があり、「道具を使う」段階があり、「道具に習熟する」段階がある。最後の段階においては、道具はもう道具ではなくなっているが、道具は常に「外部のもの」として始まるので、段階を経る必要がある。

主体と環境の相互作用が時間的経過を経て変化していく、という現象なので、静止的ないし還元的な分析では捉えがたいところはある。

逆に言うと、この「外部のもの」への違和感と付き合うことができないならば、新しいものを身体化することはできない、となる。

道具がいかに身体化するか。高速のフィードバックサイクル、正確なメンタルモデル。そこから導かれる柔軟性のある精緻なシミュレーション。それが肉体のそれと遜色ないレベルまで磨かれること。ようするに「使うこと、使い続けること」。

見えないもの

それぞれの人はそれぞれの人なりの切実な問題を抱えているが、それが見えるとは限らない。

遠回りできないこと

プロット幻想とかコツ幻想とか、何か「修練」的なものをうまくバイパスできるかのような考え方は、残念ながら現実にはうまく適応してくれない。

「量は質に転換しない」としても、やっぱり量は必要だよね。

量が不要、という立場になるとコツで解決できることになるが、そういわけにはいかないだろう。しかし、量さえあればすべてが解決される、というわけでもない。

資本主義に抗うためには

資本主義に対抗してやろうとした時点で資本主義に飲み込まれてしまうので、むしろ資本主義のなかで「俺たちのパーティーをしようぜ」という感じでゲームを歪めるしかないのではないか。

他人のこと

「他人の目を気にする」ことは、どれだけ他人のことを「考えて」いるだろうか。

他の人に原稿を書いてもらうこと

雑誌作りの運営において、一番難しいのはもちろん他の人に原稿を書いてもらうことだ。あたり前すぎるほどあたり前の話なのだけども、それは「自分が全力で頑張ればよい」という解決策は使えない。むしろ、そういう姿勢は逆の結果を引き起こしかねない。

みたいなことを、コンビニ店長時代に学んだ。

項目かつ分類

アウトライン上の一行は「項目」であると共に「分類」である。

できない感覚

する能力があるのにできていない、という感覚と、「すべき」であるのにできていない、という感覚。その二つは別物であるはずだが、容易に混じり合う。

慣れ

私たちは慣れる。慣れの中でさまざまなものが日常化していき意識に上らなくなる。一方で、私たちは何かを思い出すことができる。それは記憶の完全な再生というよりは、過去の感情の再構成でしかないが、それでも日常化したその感覚に差異を持ち込む力はある。そのとき、私たちの時間は複数化するのだ。

交易所としての「今」

未来思考であっても、過去(ログ・歴史)思考であっても、「今」の情報を捌いていく必要があって、そこが話題の交易所となるのだろう。

情報構造力学

書籍やらの構成を考えるときに必要なのが、情報のつながりや論理の強度なのだとしたときに、情報構造力学、みたいなことが言えたりするだろうか。

思考力

「体力」という言葉も非情に漠然としているというか、さまざまな要素を代表する言葉だと思うけど、「思考力」とか「知力」とかも同じだろう。

瞬発的に気の利いたことが言える能力もあるし、一つの物事について時間をかけて取り組める能力もある。ただ近年のインターネットでは前者の能力が注目されがち、というところはあるかもしれない。

それにしても「地頭の良さ」って不思議な言葉ですね。ある特殊な対象に特化しているわけではない、汎用的な知的能力の高さ、という意味合いなのでしょうけれども(知能のパラフレーズでもある)、どこかしら「当人が元々持っているもの」というニュアンスが感じられます。

二つのベクトル

結局、パターンを求め安定化を希求するベクトルと、好奇心に導かれて変化を希求するベクトルの二軸があることで、ある系が維持される、ということなのだろう。

実際にやってみる

「ちょっとでも実際にやってみる」ことでわかることや得られるものは多い。で、それをしないでグルグル頭だけで考えているとコンフューズしてしまう。その上、そうなっていることになかなか気がつけない。

自己循環的な問題

自業自得というのではなく、「自己循環的」な問題というのがある。これを自己責任の文脈で捉えても、よいことは何一つない。

情報的インプリンティングとGoogle的存在論

ググって一番最初に見つけたページに書いてあることが「真実」だという情報的インプリンティングとか、ググッて見つからなければそれはないものだというGoogle的存在論はちょっと焦りすぎだという気はする。

考えるを助けること

「この情報を得れば、何も考えずに済みます」というノウハウではなく、「さあ、この情報から何か考えてみてください」というノウハウへのシフト。到着地点ではなく出発地点としてのノウハウ。

考えることの難しさがあるとき、その難しさを整理し、見通しをつけることで、進んでいく意欲をエンハンスすること。難しいと諦めるのではなく、簡単だと偽るのでもない、一つの在り方。

わかりやすさに囲まれるとき

専門用語、コード、数式、なんなら英語などを徹底的に避けて「わかりやすく」書かれた記事。そうしたものだけに囲まれているとき、何が起こるだろうか。あるいは何が起こらないだろうか。

頭の良さと本の執筆

あまりに頭がよすぎると、本は書けない、みたいなことがあるのではないか。

仕事の技術

ブルシットと呼ぶかどうかは別にして、そのような業務群を「仕事」の枠組みとする場合、そこで発揮される「仕事の技術」もまたブルシットなものになってしまうだろう。だからこそ、逸脱的な(あるいは叛逆的な)技術が必要だと言えるのではないか。

アウトライナーと執筆

アウトライナーが文章を書くことを助けるのは、アウトライナーが文章を書くためのツールではないからだ、という側面がある。

アウトサイダーの価値

その共同体が規定する価値観に沿えない人間は、新しい価値を見出すマージンを持っている。

ノウハウ本の道行き

個人的な感覚として、知的好奇心に促されるままにたくさんの本を読んでいくことと、挫折感に苛まれて次から次にノウハウ本を読み漁ることは、結構別物です。

でもって近年のノウハウ本は後者のような構造に嵌まりやすい気がします。

共感で「私ごと」として、絶対にできると保証することで、行動をエンハンスするのはよいとして、そうすればそうするほどそれができなかったときに自分はダメなんだという感覚が強まる。序盤で「私ごと」としてしまっているから、簡単に切り離せない。

そういうことを避けようと、「絶対にうまくいく方法」を提示しようとするのだが、そんな方法などありはしないので、どこかにかならず穴が生まれる。その穴に嵌まってしまう人もいる。

だからこそ、僕は何度も「あなたの方法でいいんです」ということを述べている。

ただ、トラップはそういう苛まれた人がいるほどノウハウ本の売り上げが期待できる、ということ。さらに言えば、オンラインサロンへの誘いも同様だろう。ただし、この期待が本当にその通りなのかはわからない。