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第八十一回:Tak.さんと 「生活の技術」について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

ゲスト回BC019『心の仕組み 上』 - by goryugo and 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

発散でも収束でもない態度

無理して収束しなくてもよいというか、発散でも収束でもない態度というのがあると思うのですが、長くなるのでまたどこかで。

鞘戸 コウさんはTwitterを使っています 「Scrapboxは頭に浮かんだ考え事をどんどん放り込む場所として確立しつつあるけど、ボクの場合は拡散しまくっていて、収束しようという意識があまりない。故にたまに長文書きたくなって、ネタはここにいっぱいあるぜーと思っても、頭を抱えそうな気がする。いや、気のせいじゃなくてきっとそう。」 / Twitter

似ている知的操作

management ≒ design ≒ edit

心の振動

「心が震える」はメタファーに過ぎないのだけども、しかしそうして震えた心は、何かしらの表現を通じて他者に伝播していくという意味において、たしかにそれは振動なのである。

そのときに、そのような伝播を可能とする「空間」とは何か、というのが議題として立ち上がる。

炎上商法の構造的限界

炎上作法で適当なことをいってそれへの批判込みでPV狙う、というやり方の是非はさておき、どこかにそのやり方の限界(つまりねずみ講のような構造的限界)があるのだろうか。純粋に系の振るまいとして興味がある。

インテリポリコレ正義感 

自分は正しい倫理観を持っているので自分が納得できない主張を持つ人は──議論の余地なく──間違っているという感覚は、インテリポリコレ正義感とでも呼べるような厄介な感覚だ。

なまじだいたいは倫理的にまっとうなことを言うがために、ときどき踏み外している道に気がつけない。

見えなくなっても問題は残る

ある種の言説を「見えなく」すればそれらに関する問題が消えてなくなると考えるのはあまりにイノセントだろう。

悪を為す主体という想定

たとえば、悪を為す主体がおりそれを退治すればその社会から悪がなくなる、という考え方は当人の精神安定のためには有効であっても、実際の問題解決には邪魔になる、ということはある。

再帰による混乱

再帰的であるからこそ、生じる混乱がある。思考において、今何について考えているのかが捉えづらくなってしまう。

自由意思と幸福

過剰な自己責任を裏書きするために自由意思が用いられるならば、やり玉に上げられるのは避けがたいとして、個人の選択なるものをまったく無化することが幸福への道のりなのだと言われると、それはそれでノリがたいものがある。

情報者が愛するもの

たとえば、漁師が海を慈しみ、木こりが山を愛するなら、情報や知識で生計を立てるものは、何をその対象にするだろうか。

教育されるべきこと

確率論的、統計的なものの見方が生得的なものでないとしたら、まさしくそれは教育されなければならないのだろう。

人間にはよくあること

自分の利害関係のないところではさんざん批判しておいて、利害関係があるところでは「まあ、別にいいじゃないですか」という態度を取る、というのが実にフラクタルにいろいろな場面に出ている、というのであって、別段悪意とかそういうことではないのだろう。

名言風

「着手せよ。そうすれば進捗が生まれる」

完全に調和の取れた構造を作るコスト

昔から「完全に調和の取れた構造」を持つ作品に憧れがあるのだけども、結局そうしたものを作るのにはものすごく時間がかかるのだと最近ようやく納得できたところがある。目の前のプロジェクトにたいしてそこまでの時間が確保できないなら断念するしかない。そこには魔法はないのである。

規模に対して労力が乗数倍されるような感覚がある。

アイロニーと閉塞感

アイロニーは、言葉を二重に受けとることだ。multiple context.それができない場合は、世界から多重性が失われるだろう。

単一コンテキストの強度の強さと脆さ。フラジャイルでないもの。可変性の喪失。「そのまま」の世界の突きつけ。

それが閉塞感のパラフレーズなのかもしれない。

だからやっぱり科学vs非科学とかではなくて、もっと大きく「単純 vs 13fqwfvqdt1427d12g9…」ということなのだろう。

刺激をトリガーするもの

思考は入ってきた刺激にトリガーされることが多いので、「閉じて」しまうと自分の「思い」だけがそのトリガーとなり、循環構造の中、どんどん純化されていって、最後は自家中毒みたいなことになってしまう。

弱緩中

弱くつながり、ゆるく考え、中途半端に実践する。

自分の考え、他人の考え

付和雷同ではなく各々が自分なりに考えましょう、という段階が必要としても、その次にはそれぞれの考えを持ち寄ってさらに考えましょうという段階がどこかでは必要になってくるのではないか。

パターンの情報不足感

パターンは一種のモデルなので、それはそのまま「答え」にはならない。答えを直接求めている人には物足りない情報ではある。

自己の底にある他者への扉

ジーン・フィニは、世界を避け徹底的に映画に没頭したことで、結果的に自ら作品を通じて世界と(つまりは他者と)つながった。おそらくらその作品は、徹底的なレベルまで没頭していない中途半端な状態からすると、「中途半端」なものに見えるのではないか。

自分の底に他者が在る、ということは、一見単純な構図に見えても、実体はそうでないことを示唆する。

オブジェクト的な捉え方を改変するとしたら、そうした「見立て」であろう。

諦めることで諦めない

『独学大全」が”「学ぶこと」をあきらめたくない人のため"の本であり、『ライティングの哲学』において「断念」が一つのキーワードになっているのは、なかなか示唆的である。

『独学大全』では、学ぶことをあきらめないかわりに、「理想的な自分」や「効率的な近道」があきらめられている。『ライティングの哲学』では、「書かないで、書く」というような姿勢をとりながら、それでも「書く」ことそのものをあきらめていない。

「そんなに苦しいなら書かなければいいんじゃないですか」「学ぼうとしなければいいんじゃないですか」という合理的な問いを無効化するような欲望(と言って差し支えないだろう)がそこにはある。

「こう書きましょう」と言われてその通り書ける人はそれでいい。提示された学び方で満足できるならそれでもいい。でも、そうでない人たちがいる。想定された枠組みに沿えないアウトサイダーたち。そういう人たちの肯定が二冊の本にあるのではないか。

アウトライナーというツール

アウトライナーというツールの特性はいろいろあるわけだが、その一つの「項目単位での簡易な操作」は、究極的に言えばデジタルツールならだいたいできることの簡略化にすぎない。

と、慌てて補足するがその簡略化こそがツールを特徴づけている。何を簡略化し、何を簡略化しないのかという判断が、(意図の有無とは別に)ツールを方向づけている。どのツールがどう使われるのかの傾斜を生んでいると言い換えてもいい。が、いったんその話は脇に置いておく。

とりあえず項目の移動操作が簡単である、という特性を除けば、「折り畳む・展開する」と「ズームする」の二つの特定が残る。これがアウトライナーっぽさでもある(リスト操作ツールとアウトライナーを分ける特性と言い換えてもいい)。

で、この二つは何なのかと言えば「見え方の制御」である。データの構造を直接変えているわけではない。あくまで、その「見え方」を変えているだけだ。一見すると、重要でなさそうなそうした性質が、実は極めて重要だということがわかる。

なぜなら、データの「見え方」というのは、ツールの使用者とそのデータとの接面になっているからだ。それが変わるだけで、脳のプロセスが(知的情報処理が)変わってくる。そして、まさにそうしたプロセスに影響を与えることがツールの一つの役割でもある。

だから、「見え方の制御」はぜんぜん重要ではない要素ではない。むしろ極めて重要な要素だ。しかしそれは、ツールの「本質」ではないかもしれない。本質という言葉の定義には依るが、広く考えてもこれは「本質」とは呼べないだろう。しかし、それと同時に極めて重要でもある、ということがあるわけだ。

思想と真理

「それサバンナでも言えんの?」と「それ16世紀でも言えんの?」。横と縦。思想が真理を探究するならば、それは遍く「正しさ」を持つはずであるが、はたして。

可能な限りある極端なことを言ってみる言説的態度としての哲学とその思想。最悪の結果のシミュレーション。

ポストモダンな相対化の中で、「大きな物語」が壊れてしまったとして、そこには「真理」も含まれるのか。

嘘をつくのは「正しくない」としても、殺人鬼に友人の居場所を尋ねられたら「知りません」と答えるのはダブルスタンダードではなく、多重的な真理の態度である、と言えるのかもしれない。