2021年08月21日までのツイートノート
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BC018 アフタートーク&倉下メモ - by goryugo and 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト
集中するための儀式
集中するための儀式(ルーティーン)としての、「ブラウザを閉じる」。
矛盾した感じが消える
そうか。何度も繰り返すと──矛盾が際立つのではなく──むしろ矛盾した感じが消えるのか。たしかにそうかもしれない。
場当たり的な発言だから矛盾が検討されないのかと思っていたが、むしろ繰り返しの方が影響が強いのかもしれない。
大きな物語とノウハウ:
つまり、大きな物語としての絶対的なノウハウの解体、というのが今興りつつある事態であって、しかしそれを小さな物語の集合(リトルピープル)に安易に回収させるのは違うのではないか、という問題意識がある。
加速するヤバさ
言説のヤバさみたいなのって、最初はヤバげな雰囲気が出てきたな、という感じなんだけど、そこから急激な角度を描いてヤバさが上昇するような感じがある。
推測だが、どこかの地点で「閉じ」てしまい、それまであった力の均衡みたいなものがなくなってしまうことから生じるのだろう。
ちょうど良い抽象度
たとえば、「読者のことを考える」(by 結城浩)は非常にバランスの良い抽象度である。具体的な行為は何も指示しないが、何をすればいいのかの指針を与えてくれる(具体における裁量がある)。
一方で「相手のことを考える」まで抽象度をあげると適応範囲は広がるが、実践のために具体の階段を二段おりなければならない。これは認知的な結構な仕事である。
「認知的な結構な仕事」というのは、実践的に使おうという考えが浮かんできにくい、とも言い換えられる。それは「やってみよう」とは思えないだろう。
別の視点をとれば「読者のことを考える」という抽象度で留めてあるからこそ、情報の受け手はその階段を下がったり(具体化)、上ったり(さらなる抽象化)できるとも言える。そのパターン自身を、パターンとして使うことができる。
ノウハウ本の書き方を再検討することで、ノウハウの在り方そのものを再構築しようとしている、節がある。
少なくとも、個人に最適化された方法を、安易に「一般化」したり、ましてやそれを適当な論文で権威つけたりするのは違うだろう。そのようにして、その方法に個人を「閉じこめる」ことはハッピーな結果にはならないと想像する。
身にしみている情報ツール
いろいろ情報ツール使っているが、
・気楽で開放的で(ややノイズがある)Twitter ・部品的・途中的・非同期的に話ができるScrapbox
は、いまのところ代替がないくらいに倉下の身に染み込んでいる。
やってみたくなること
先に失敗が待っているにせよ「やってみたくなる」ことは大切なのだろう(なんにせよ失敗は必ず待っているのだから)。対して、「わかった気持ちになって手を動かさない」情報受容は、──絶対に「失敗」はしないが──実践にはほとんど役立たない。
縦書きか横書きか
軸が多数あって、いろいろ切り分けが難しいですが、縦書きと横書きだけに限定するならば、僕は入力はすべて横書きですね。縦は組版で出てくるだけです。20年くらい前はまだ原稿用紙に縦書きしていましたが、今は日常で使うことは皆無です。一方で、横で書いたものを「縦にして読む」ことはあります。
その場合は、横書き(テキストエディタで書く)→縦組み(PDFなどにする)となって、メディアが変わっています。ページという概念が生まれている。それによって、読むリズムが変わり、それが文章を変えることも少なくありません。書籍執筆でもこれは同様。
思索を進める上で、自分の考え(拙著なら「思い」)をとりあえず外に出す上では、抵抗値が一番小さいものが望ましく、僕の場合はタッチタイピングがそれで場合によっては音声入力もそこに入る。一方で、その考えを吟味する場合は(拙著なら「考える」)、抵抗値がむしろ必要になることがある、という感じ。
この段階ですでに縦書きと横書きの話から逸脱しちゃってますが、これはなかなか難しい問題であることはたしかです。
最上行以外から書くこと
手書きノートでも一番上から書きはじめるのと、そうでない場所から書きはじめるのには違いがあって、もちろんそれはパソコンであってもそうだろう。
タイプライターモード的なものは記入位置を常にセンターに固定することで、むしろそれは脱「場所」的な在り方と言える。一方で、単に真ん中から書きはじめることは、非常に場所的な(場所指向な)在り方だと言えるだろう。
ノートを最初の行から記入することは、情報の流れが「下」か「右」方向に限定されることを意味する。真ん中から書けば、起点となる情報からの流れを四方八方に確保できる。
このことは、情報構造に対応させるならば、単に階層を降りるだけでなく、上がっていくこともできるツール、というものになるだろう。
よくある欲望:
研鑽する気はないが、それをしている人と同じだけの成果とそれに付随する栄誉が欲しい、というのはさすがによくばりだろうという気がするが、よくある欲望でもあるのだろう。
大仕事
やはり、梅棹から野口あたり、そして2010年ごろまでのノート術と近年のデジタルノート法を俯瞰してまとめる仕事が必要なのだろう。
方法を並べてはい終わり、というわけにはかず、それぞれの方法で何をやろうとしていたのかを掘り下げていく必要がある。その上で、じゃあ「現代で・個人が(あるいはチームが)・何をするのか」を問う話になる。
あとこれ、タイトルというか総括するキーワードが何になるのかがとても難しい。知的生産の技術 or ?
データーベース式以外
個人の情報でも住所録などならばデータベース式がうまく対応する。しかし、そうでない情報もある。で、それをどう処理したらいいかという観念(つまりメンタルモデル)がうまく確立されていない。
こざね法とペラ一枚法
これは行為の目的が結構違っている。梅棹で言うならば、こざね法がペラ一枚法に対応するだろう。
pokarimさんはTwitterを使っています 「梅棹忠夫の京大式カードよりもペラ裏一枚にすべてをまとめよという立花隆のやり方のほうが個人的には使いやすいと思う。」 / Twitter
悟らない悟り
何かどこか不完全だな、という感覚と共に生きていくこと。悟らないという、悟り。
「らしさ」とdisturb
「らしさ」を維持しようと意志することと、それをdisturbする存在に向けて開くこと。この二つの力によって生まれる状態がある。
情報の全体的な構造
基本的な自分の前提として、この世界において情報は全体として構造を形成していて、人間が(人間の認知が)切り出せるのはその一部でしかない、という理解があるのだろう。
個々の情報は世界という全体につらなっているので、何をどう並べようがその背後に構造がある、というのは自分の中ではスタートラインで、その切りとり方が知的作用にどう影響するのか、というが自分の興味ポイントなのだな。なるほど。
有限性と構造
情報が実際にどのような構造下にあるのか、という理論サイドではなく、それがどう「表現されているのか」という実体サイドが自分にとっては重要なのだ、と気がついた。
なぜなら、ある種の有限性の中にないと人間は仕事ができないからだ。理論サイドでいけば、あらゆる全体的な構造がどうしても要請されてしまう。そこに向けたまなざしは有効ではあるが、それを一時的に切り捨てないと進められないことが多い。
構造として同種のものが、ある表現の形式によって知的作用が変わってくる、という点が自分にとっては大切なことだ。そこでは共通性ではなく、差異に注意が置かれているが、もちろん共通性がどうでもいい、という話ではない。
アウトラインの多様さ
文章のアウトラインはツリー構造で表現されることもあるが、必ずしもそれだけではない。特に、文章についての shape of my idea であればなおさらそうなる。
メディアは生まれかわり続ける
『コンバージェンス・カルチャー』でも指摘されているが、新しいメディアの登場は古いメディアを単純に淘汰するものではない。むしろ新しいメディアを通してコンテンツとの関係性が生まれ変わるようなところがある。
小説だって死滅したわけではなく、さまざまな媒体や形態を通して読まれている。その事実を踏まえれば、単に悲観的になるのではなく、何かしらのアイデアを考えることができるのではないか。
似ていること、異なること
異なることを言っていても似たような視点からの話もあるし、似たようなことを言っていてもまったく異なる視点からの話もある。
たとえばライフハック的なテクニックにしても、同一のことに言及していながら視点が違えばその位置づけ(意味づけ)がずいぶんと違ってくることがある。そしてその違いは、瑣末なものではない。
仕事が愛であるならば
仕事が、愛であるならば、
1.その「成果」は計測できるのか 2.ブルシット・ジョブはどのように位置づけられるか 3.『人間の条件』や『資本論』はどのような意味を持つか
ゆっくり本を読む環境を作る
ようやく落ち着いて本が読める感じになってきた。『本好きの下克上』では、ゆっくり本を読む環境を整えるために悪戦苦闘するエピソードが出てくるが、そういうのは非常によくわかる。時間があれば本がゆっくり読める、というわけではないのだ。
Twitterとの付き合い方
個人的な感触として、Twitterを見てはいけない精神状態のときほどTwitterを見てしまうので、代替場所を持っておくのは有用であると思う。
興味の根が伸びる
文章を書くのが好き→どうせなら「良い/うまい」文章を書きたい→知的生産の技術→
みたいな興味の持ち方だったように思うが、「技術と認知の関係」とか「情報社会における知的生産の技術」みたいなものにまで興味が広がっているところはある。旅的な移動というよりは、根が伸びている感覚。
文章をうまくかけるようになること
文章の手直しも、「そこまで手をかけたいわけではない」という姿勢はあるわけで、どこまで編集長が「押しつけ」てよいものなのかは判断が難しい。
自分自身に限定すれば文章をうまくかけるようになるための投資やコストは許容できるし、似た人たちにも同じ物差しを適用できるが、その領域の外に出たときに同じことが言えるだろうか。
何かしらのコツを煎じて飲めば、あっという間に文章がうまくかけるならば別段よいのだけども、どうしてもある程度の苦痛・苦労・苦心をくぐり抜ける必要があり、それが「値するのか」という問題がある。
で、その効能がブログでPVが稼げるようになるとかだとまったくペイしないが、そうではないのではないか。もっと根源的な知的能力に関わっているのではないか、という仮説。
一つには文章の推敲というものが、「かもしれない」性に満ちあふれている、ということだ。自分自身ではこう読める(こうしか読めない)というもの対して、そうではない「かもしれない」という他者性を導入すること。その思考の運動は、ある種の知的トレーニングとして有用だろう。
しかしだからといって何でも許されるわけではない。負荷の高すぎるトレーニングがマズイのと同種の課題がある。
不真面目さと真剣さ
不真面目さと真剣さは同居できる。
人が書ける目次案
「自分が立てた目標が達成できるとは限らない」
「自分が立てた目次案が達成できるとは限らない」
逆に言えば、人は自分が書けるとは限らない目次案を作ることができる
避けがたい負荷
効率的に学ぶことは大切だし、必要だと思うけども、効率性をとことん追求して「動かない筋トレ」的なところまで行ってしまっては、なんだかおかしなことになってしまう。ある種の負荷は避けがたいものなのだ。
あと、「無駄なことはしたくない」という気持ちもよくわかるのだが、何かを無駄かどうかを判断しているその自分の判断力が未熟である可能性がいつでもある、ということは考慮しておきたい。
考えるためのノウハウ
何かのノウハウを「売る」ために受け手の判断力を落とすような提示の仕方がされることがあって、それは一つの手法ではあるのだけども、考えるためのノウハウでそれをやるとおかしなことになる。
思考に一手間かける
ぱっと何かを思いついてそのまま提出するのではなく、一旦立ち止まって「まてよ」「もしかしたら」という工程を入れること。そうしたところでそれが「完全」に至れるわけではないが、ちょっとはマシになる。思考に一手間を加えること。
ファスト教養
「ファスト教養」に匹敵する言葉を考えているが、なかなか難しい。「寝てるだけ筋トレ」とか、「友達作りマニュアル」とか、「ぼっち公共」とか。
Author rashita
LastMod 2021-08-21 (08e0f98)