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BC017 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

第七十七回:瀬下さんと『ライティングの哲学』と『すべてはノートからはじまる』について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

第七十八回:Tak.さんと『ライティングの哲学』について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

作る力

何を作るにも力がいる。言い訳もたぶん同じだ。

私たちは、別に言い訳なんて作りたくはない。そうせざるをえないから、そうしているのだ。

イケてる

「イケてる」と「イキる」は関係があるのだろうか。

実際の語源は別にして、「イキる」というのは、「イケている状態を頑張って目指している」みたいな感覚がある。

『バルカン人は整理整頓がうまいか』

感情を持たない、合理性の塊であるバルカン星人は、地球人種よりも整理整頓が上手いだろうか。

本としての面白さ

『知的生産の技術』や『思考の整理学』は、紹介しているノウハウとは別に、それ自体が読み物として面白いという特徴がある。それはもちろん軽視してはいけない要素だろう。

「知的生産の技術」の本だからといって、「知的生産の技術書」(つまり技術書)であるとは限らない、ということだとも言える。

閉じたコミュニティーは「煮詰める」力がある

閉じたコミュニティーによって安心感が醸成されるならばよいのだけども、そこで憎悪が醸成される可能性もあるわけで、それはそれでやっかいではある。

知識の前に大切なこと

知識を学ぶことは大切、みたいな話が共有できても、物語・信仰・意志、みたいなものを軽視(ないしは嘲笑)する人とはウマが合わない。

その人の工夫

読書メモやら情報をまとめたノートを見るのが好きだ。たぶんそれはそこに工夫があるからだろう。その工夫から「その人」が感じられる。逆に、定型化された手法は効率的であるかもしれないが、その分「その人」がうまく見えてこない。だから見ていてもそれほど面白くはない。

自由に使うための誘導

「ユーザーがツールを自由に使えるように誘導する」というのは、リバタリアン・パターナリズムに当たるだろうか。

逆に言えば、何も誘導もせず、本当に自由なツールは、ユーザーを自由に導いてくれるだろうか。

そのままの規範性

何もわからない段階で作られるアウトラインはその人の規範性がそのまま露出したものになり、有限化による規範性からの逸脱に進むのではなく、むしろまるっと自らの規範性に囚われる格好になる、ということだろう。re:visionの話を深めるとそういう展開ができるはず。

自己啓発の組み替え

単純に自己啓発を否定するのではなく、その文脈を組み替えていく、みたいなアプローチがよいのではないか。

真なる効率化社会

真なる効率化が推進された社会で、自分が職につけているかを考えると、わりと難しい気持ちにはなる。

制約を前提として

ある制約の中でしか動けないことを踏まえた上で、その制約を乗り換えていく。

メタファーとメンタルモデル

情報ツールを使う上で適切なメタファーを確立できるかどうか、は重要である。そのメタファーがメンタルモデルのコアになる。

人は辞書の定義的にツールの使い方を「覚える」のではない。まさに言葉を使うようにそれを「体得」するのだ。

ノウハウの神格化の功罪

ノウハウの神格化は「そういうものがある」という伝達のためには役立ったが、それが強くなりすぎた結果、「人」には扱えないものになってしまった。リアルなノウハウは、その神話を解体するものである、と捉えられる。

最近、「リアルなノウハウ」について考えているが、数学ガールにある「優しさ」もそうしたものに近いのではないか。まっすぐにすぐさま理解できるわけではなく、間違えながら、右往左往しながら「わかっていく」というアプローチ。それは、そこに「人」がいる、ということでもあろう。

たとえば、テトラちゃんがいちいち疑問を持ったり悩んだりしないなら、ページ数は1/5くらいになり、そして多くのものが失われてしまうだろう。おそらく具体的なtipsの話ならば、そういう形の情報でもよいのかもしれない。でも、そうでないノウハウの話もあるのではないか。

憧れと距離感

緻密で整ったものに対する憧れは、それを遠いものとして扱う力にもなりうる。

思考とアウトラインと

https://twitter.com/takwordpiece/status/1422428213351911429

アウトライナーにしてもマンダラートにしても、掘ればいくらでも奥があるほど深い。そして両者は「非常に単純なカタチの上に思考を載せた上で操作する」という共通点がある。

両者ともに、

1.骨子は極めて単純な構造だが 2.再帰的で展開させていける

という特徴を持ちますね。

2を可能にするには、1が必要、という点はあるだろう。

でもって、これは思考というプロセスそのものに呼応する話でもある。

束縛と逸脱と

言葉の道具(物質)性と、リストの項目均一性。束縛でありながら逸脱を可能とする要素。

切り札

自分が切れる「切り札」は、自分の手札にしかない。

万能感のあるノウハウ

強い共感から入って、万能感で終わるノウハウは気持ちが良いものだが、だいたいそれだけで終わってしまう。どこかで井戸をくぐり抜けなければならない。知らない間に。

この万能感は著者に自分を重ねることで生じるわけだけども、それはつまり「自分のことを考える」から目を背けていることになる。具体とか抽象とかの手前に、一番必要なことが回避されている。それこそが問題だと個人的には感じている。

抽象と具体の言ったり来たり

『ライティングの哲学』と『すべてはノートからはじまる』を合わせて読むと面白いなと思うのだけども、抽象と具体って別に断絶していなくて、複数の具体から立ち上がる抽象があり、一つの抽象から実装される個別の具体がある。つまり、行き来するものだ。

その意味で、個別のノウハウの手前には、そうした具体と抽象の動き方/動かし方がメタ・ノウハウとして存在していると言えるかもしれない。

だとしたら。

そう、だとしたら僕は次にどんな本を書くべきであろうか。そういう問いが立ち上がる。

序列

減点方式による評価は、「同一の場において序列をつけなければならない」という村社会的発想ではおそらく必要な行為だったのだろう。現代でそれが必要なのかはさておくとして。

その意味では、場に新しい価値をもたらす存在は、厄介なだけでなくむしろ敵ですらありえる。

価値を計る物差しがないと、手持ちの物差しを当てるしかない、ということはあるのかもしれない。

何か他と違うものを見かけたときに、「他と違う。減点」という環境と「いいじゃん、独特じゃん」という環境とでは、行為主体者に与える影響は大きく違うだろうなと予想。

振り返ってみると、倉下は若い頃に「変わっていること」を面白がってくれる人と出会えた経験があった。それはとてもありがたいことなのだと思う。だから、これからも「独特じゃん、いいね」と言っていきたい。

エッセンス

エッセンスは、それだけで存在しうるか。

ツールの進化

ツールに新機能がバンバン追加されることがツールの進化だ、と考える向き、資本主義っぽい雰囲気があるな。

たとえば、桃の木の桃がすごく美味しくなるのは喜ばしいとして、桃の木にマスカットがなるようにすることが喜ばしいことだろうか。

はじめから手を出さない

攻撃的なツイートをして、たまたまそれがバズってしまったら、それが強化因子となってどんどん過激化していき、最後にはいちゃもんであってもツイートせずにはいられなくなる、というような依存みたいな状態もあるのだろう。

だからまあ、薬物と同じで最初から手を出さないようにするのが一番の方策なのだろう。

そつない執筆の限界

「概ねこれならそつなく書き上げられるだろう」という構成案は、自分から見たときに面白い部分がほとんど見つからなくなってしまう。

Wordの嫌われ具合

Wordに代表されるドキュメント作成ツールが嫌われるのは、基本的にあれが「白紙」から書き出すことを要請している(かのように感じられる)からだ。だからたとえば、作成前にAIと軽くチャットをしたら、それっぽい叩き台がすでに書き込まれた状態から始まる、とかなら随分印象は変わるはず。

偶然性というリアリティー

「偶然性にリアリティーを感じないなら、それは若いということだ」

あってはならないもの

本来「ありえる」にも関わらず、「ない」ことになっているものは、分析も対策も行われることはない。もちろん、実際にそれが起きたら準備不足が露呈して混乱は深まる。そういう現象は広く見られる。

政策の話だけではない。「いじめ」や「差別」といったものも同様だし、なんなら「うまくいくはずに決まっているノウハウ」も同じである。それらは可能性をうまく想像できてない。だから一見強固に見えるのだが、実際はひどく脆い。

「かもしれない性」の導入。それは、神経症的に無限に拡大する心配とは違う。単に目をつぶらない、というだけの話だ(もちろん、それが一番難しいわけだが)。

話は変わるが、自分の中に醜いものがあるのだということを否定していると、他者がその醜さを露呈したときに、激しく感情が揺さぶられるのだろう。言い換えれば、その他者を否定することでしか「心の平穏」が維持できない、というか。

「ないはずのもの」は、「あってはならないもの」になる。