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BC017『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

第七十六回:Tak.さんと『すべてはノートからはじまる』について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

自由に文章を書く練習

考えてみるに、僕たちは自由に文章を書く練習をほとんどしないままに大人になる。規定のフォーマット=規範性に従うように書くことばかりを行っていく。そして、その結果が採点される。それは楽しいことではないだろうし、自分の心と付き合うために「書くこと」を使う、という発想も生まれにくい。

ブログを書くことの楽しさは、この裏返しだとも言える。一方で、そのフィールドにも他者からの規範性が持ち込まれることが珍しくなく、それはもう呪いめいたものである。

「書くこと」において規範性が働くことを避けられないならば、「書かないで書く」のようにズラすか、ないしは別の規範性を自分の内側から立ち上げて、その「ゲームをする」という感覚を持ち出すのが良さそうである。

フラットさ

フラットというのは、「つかみ所がない」ということなのだろう。つまり、凸凹しているもののには価値を見出せる素地があるということだ。

「先送り」と「先延ばし」の差異

語感として違いがある。先送りは、ある時点に処理を引き継がせる印象。先延ばしは結論(処理)を保留する印象。

健やかでさえあれば

知的に豊かに生きることが喜ばしいとしても、それより前にその人が健やかに過ごしているならばそれでもう十分に嬉しい、ということはあるだろう。

コツを煎じて飲む

何かしらのコツを煎じて飲めばたちまち問題が解決するということはまずない。

村社会プロトコル

空気を主体として、それに従う形で各自が「おそらくこうだろうから、こうしておこう」と思って進めて行くやり方は、村社会的なプロトコルなのだろうけども、価値観が均一な共同体以外ではだいたいうまくいかない。

じゃあどうすればいいかというと、これはもう話し合うしかない。自分がどう考えているかを伝えて、相手がどう考えているのかを聞くこと。これを日々行うことは(村社会プロトコルからすると)ひどくコストがかかるのだけども、僕たちがニュータイプにならない限りは省略できないコストであろう。

完全に切迫してから感情をぶつけて敵対関係を作るのではなく、その手前で日々意見を交わらせておく。「察し」のスキルは有用だし効率的だが、やっぱり完全ではない。

「自分は相手がどうして欲しいか察して行動している」というタイプの人は、相手もそれができて当然と考えがちだが、そういうわけではないのである。

最初のプログラミング入門書

一番最初に読んだプログラミングの入門書が何だったのかを思い出そうとしているが、かなり昔なのでなかなか難しい。

購入した書籍ではないが、Visual Basicについてきたプログラミングガイドを穴が空くほど読んだ記憶はある。

1996年の本で、今読み返してみたら、驚くほどコードの意味が理解できた。昔はVisual Basicだったので、コードの意味よりもパーツの配置が重要で、意識がそちらばかりに向いてきた気がする。

一ツイートの重み

感想のツイートの数々によって著者の心が温まっていくことを考えれば、逆の、すなわちヘイトなツイートもまた、投稿者が想像もしえない力を有しているのだろうと推測がつく。それはやっぱり怖いことだ。

ツイートしている当人にとってはたかだか1ツイート、という感じかもしれない。でも、受け手にとってはそうではないのだ。

創造的な言葉づかい

“権力者はときに単純な言葉を使う。なぜなら、創造的な言葉づかいで聴衆を考えさせるよりも、「明快な」表現によって聞き手を一定の方向へ扇動することを欲するからだ。” 『日本哲学の最前線』(山口尚)

そうした扇動に長期間さらされている人からすれば、その人にとって考えさせる言説は怯えの対象になってしまうのだろう。

読者の力を信じること

親切に手を出しすぎることで、読者を何もできない迷える子羊に固定してしまう。そうではなく、読者の力を信じること。

人が書くことの実際

人は、

・ゼロから書くわけではない ・真っ直ぐ完成するわけではない ・思った通りに書けるわけではない

褒め合う文化

筋トレ系って、競うけど褒め合う、みたいな印象があるんだけど、知的にハイソな人たちにもそういう雰囲気があるのかしら。

自分が向かっている場所

自分は、自分がどこに向かっているのかはぜんぜん分かっていない。強いていえば、以下のような「理念」を持っている。

・マンネリな仕事はしないようにする ・そのときに自分が切れる最高の手札を切って面白い本を書こうと努める ・常に「面白い本とは何か?」を考え続ける

だからそのときどきで出てくる答えは違っている。常なる生成変化。

そうした連続する変化の中で、何か共通のものとして残るものは何かと言えば、それは文体。文体は残響する。

謎の言葉遣い

スポーツの解説で「強い気持ち」とか「メンタルで勝負」とか、そういう言葉遣いが出てくるのは何か要因があるのだろうな、きっと。

禁書籍購入

禁煙とか禁酒とかいろいろあるけど、禁書籍購入も難しいですよね。たぶん、Twitterをやめないと不可能そう。

だからまあ、ちょいちょい失敗しながらそれでも間欠的に続けていけばヒントみたいなものが見つかるのではないかと思う次第です。当然、ノートをとりながら。

やりがい駆動

ベネフィットとデメリットを考えて何かしらの行為を自分は行わないと判断するのはごもっとだとして、自分は真実を知っているのだ、それを啓蒙せねばならぬ(そのためには何をしても許される)という行動は一体何ナノだろうかと考えていたのだが、「やりがい」ということなのかもしれない。

小さなギアとしての機微

ノウハウにも機微というのがあって、存外にそれが大切というか、大きなギア間を接続する小さなギア群になっているのではないか。

不完全に立ち寄る

徹底的に、シビアに、完全に迫るのではなく、中途半端に、生半可に、不完全に立ち寄ること。

言葉にすること

「言葉にする」という行為それ自体が本来は有限化であり、しかし私たちはそれを積み重ねることによって無限へと(あるいは完全へと)たどり着こうとしてしまう。

疎外される日本のおじさん

「日本のおじさん社会」が新しいビジョンを示せていない、という意見を見かけたが、たぶんそこで期待されるビジョンには「日本のおじさん」的なものが綺麗に疎外されているのだろうから、そうなってしまうよな、とは思う。

新しい書き方の獲得

Scrapboxに慣れると見出しを使わなくなるけど、かといって文章を書くときにmarkdownを使わないようになるわけではない。単にScrapboxでは見出しを使わなくなる、というだけ。つまり、「新しい書き方」のスタイルが新しく増える感覚。

歓待が難しい対象

「生じて当然」だと思っていることを、歓待することはたぶんできないだろう。

文筆業としての実感

コンビニのときのように、店頭に陳列してある自筆原稿をレジでスキャンして販売しているわけではないので、自分が文筆業を営んでいる感覚って普段はあんまりないのだけども、こうして書いた本を評価してもらえていると、じわじわとそういう実感が湧いてきますね。

内側に宿るもの

傲慢さを糾弾する傲慢さとか、独善性を否定する独善性とかいうのがあって、もちろん当事者はそれには気がつかない。

真理の発見とルサンチマン

ルサンチマンの解消が、(当人にとっての)「真理」の発見によってなされるとき、たぶんひどい状態が訪れる。なぜなら、その「真理」が撤回されることはルサンチマンの沼に逆戻りすることを意味するからだ。だから、その「真理」は決して検証されてはならない、というサンクチュアリになる。

管理の必要性とそこからの脱却

記録という行為に限らず、私たちはある行為の意味みたいなものを事前に設定し過ぎてしまうことがあって、それが管理の一側面なのだけども、それだけだと狭いところに押し込められてしまう、という話ではありますね。たしかに。

管理的なものが何もなくて良い、という話には乗れない。そういうありのままの肯定は、置かれた環境が当人にとって抑圧的なものでない場合に限られている。そういう人から変化という希望を剥奪するのは、目に見えない暴力性ですらありうる。

一方で、管理が強過ぎると自分の想像する世界の中に留まってしまう可能性が出てくる。これはこれで危うい状況だ。だからこそ、管理しながらもそうでない可能性を引き受ける。

たぶん、自分で赤線を引くとしたら、“あなたの想像力よりも、人生の可能性の方が広いのです"という部分になるだろう。常に自分の外と繋がるものを持っておくこと。もちろん、それと共に想像力を広げるようにも努めること→現状の繰り返しではない「未来」の描き方である、と。