2021年07月24日までのツイートノート
Contents
他者への攻撃が示すもの
「人間は、自分が攻撃されてもっとも痛い武器で相手を攻撃するのである」
ハンマー化現象
叩かれるものが目の前に提出されるとき、私たちはハンマーになってしまう。
ある種のアフォーダンスによるハンマー化現象。
パイを大きくしても
大きなパイを作ることと、それと並行してパイをどう切り分けるのかをセットで考えないとダメなのではないか。大きなパイを作れば自動的に(トリクルダウンで)皆が等しく豊かになる、というのは片方しか見ていない気がする。
Scrapboxの速度感
共同Scrapboxならではの「速度感」がある。速度ある「ゆっくりさ」。
チャットのように行単位でやりとりができ、しかしメールのように返信は非同期で構わない、という構図。
言葉通りに受け取れば
「言葉通りに受け取れば」というのは実に不思議な表現である。そうでない受け取り方があり、むしろそれがデフォルトであるかのような感覚が感じられる。そして、そうでない受け取り方から言葉通りの受け取り方に「なる」感覚もある。
ガチャの欲望の本質
ガチャを回すのは、まさにガチャを回すことそれ自体に欲望が付着しているようなところがある。レアキャラ入手がその言い訳として機能する、というような。
「すべき」を眺める
わりとシンプルなことなんだけど、自分が「〜〜すべき」といった表現を使っていたら、その来歴を考えてみるようにする。そこにある価値観に向き合ってみる。
「結局現場がすべてツケを支払う」の構図
「今、そこで働いている人たち」については透明化されてしまっている。そこでどんな苦労が発生しようが、「理念」のためならば必要なコストだとされる。あらゆるところで、そういう問題がある。
Gitの良さ
そういえば、執筆作業でもGitを使っていると良いことがあって、それはブランチを切ることとかバックアップが別にあることとは別に、作業ごとにコミット用のコメントを書くことが要請されることで、それが自分用の作業ログに自動的になってくれる点ですね。
そこにある原因は
組織による『失敗の本質』的な失敗、もずくのような文化人のぬめっとした言説、SNSに生まれる地獄のようなコメント群、みたいな切り分けではない切り分けができるのかもしれない。全部が同じというのではなく、違う線引きができるのかも、ということ。
ハラキリ is No フィードバック
それはそうと、失敗の本質的なものとは別に、失敗一発即退場ハラキリ、みたいなのだとフィードバックが皆無なので、同じことが時間を置いて繰り返されるだけ、というのはあるよね。
判断を抑制する
よく知らないことを、すぐに判断してしまう、その傾向に歯止めをかける。
たぶん難しいことだけど、取り組む価値はある。
SNS的自然淘汰
判断を保留することが大切でも、SNSの中では(ある種自然淘汰的に)拙速な判断を促す情報が広がっていくので、それとどう付き合うかは、渦中にいないときに「考えた」方がよい(「思う」ではなく「考える」)。
それぞれの媒体で
tipsはググり、レビューは信頼できる口コミを、教養は読書で、人生相談は親身な他者と。
二択的思考は効率的
二択的思考は、効率的なので具合が良いときはうまく回っていくが、一度状況が悪くなるとこれまた高効率に状況を悪化させてくれる。
こんがらがる言論空間
みんなが逃げ道を作ることで、へたっぴなシムシティーみたいになる言論空間。
言葉の射程
それはそうと木村泉さんの『ワープロ作文技術』は現代でも普通に面白く読めるが、「ワープロ」というワードが現代では機能不全を起こしがちなのは間違いない。
だからたとえば、自分が「Scrapbox知的生産術」みたいな本を書こうとするときに、その時間的なリーチを考えてしまう。
教養の一側面
(ごく狭いレベルを含む)文化によって規定される「このように生きるべし」を逸脱できる認識と知識。教養と呼ばれるものの一つの側面。
贈与された着想
贈与された(贈与によって生まれた)着想はつぶやきたくなる仮説。
中にいるからこそできる反抗
資本主義の中で活動することと、資本主義に取り込まれてしまうことは即座にイコールで結べるものではないだろう。あるゲームのルールに同意することと、そのルールが正義であると認識することが即座にイコールでは結べないのと同じように。
むしろ資本主義の中で活動するからそこの抗い、というのがあるはずである。
たとえばある言語の問題点を論じること自体は別の言語でも可能だが、その問題を実践者に伝えるならばその言語を用いることが効果的であろう。それが万事の解決策だとは言わないが一つの手立てであるとは思う。
オブジェクト指向幸福論
オブジェクト指向存在論から展開してオブジェクト指向幸福論なるものも考えられるかもしれない。
新しい知識を受け入れる土壌
教科書によって知識を獲得し試験に合格できることと、新しい知識を受け入れる土壌を整えることは、つながってはいるが直結はしていないのだろう。
「覚える」の前にある、「評価する」というプロセスがここでは重要なのだろう。
でもってそれは、山岸俊男さんの安心社会の概念と結びつく。
そういえば、インターネットが少しだけ普及してきたころは、その場所は「安心社会」などではなかったわけだ。逆に言えば、僕たちはそこで信頼社会の立ち回り(カルチャーと言ってもよい)を体験学習してきたことになる。
できるだけ進める
「できるだけ進める」という指針は、別段悪くはないのだが、伸縮率が高過ぎる問題があることは気に留めておいた方がよい。
規範性への反発
「人に迷惑をかけてはいけない」という規範性が強いから、断言炎上断罪系の迷惑言説が逆にウケる、ということなのかもしれない。
赦しと忘却
大切なのは赦しであって、むろん忘却ではない。
フェイクはリゾーム的に広がっていく
「フェイク」の拡散がリゾーム的に広がっていく、という話はなかなか示唆に富む。あるいはエコーチャンバーと対比させても面白いだろう。
「フェイク」の認定がされる(あるいは「真実」の認定がなされない)情報の流通は、何をもたらすのか、ということ。
たとえば、カルト的な支配構造では情報はツリー状に伝わっていくのではないか。そのとき、「フェイク」を伝えるとはどういうことか、といったような。
物語回路で回収できない出来事
自分の中にある物語回路ではうまく回収できない出来事に遭遇したときどうなるのか、というのは大切な話であると思う。
執筆という行為
執筆とは、片方では思弁・観念操作であるのだが、もう片方では純然たる肉体的動作であって、後者はもろに知覚に影響を受ける。まあ、その二つを完全に分離できるわけでもないのだが。
比喩の不完全性
比喩は、対象と完全に対応しない(対応するならそれはもはや比喩ではない)。その「完全に対応しない」からこそ良いのだ、ということ。そこにある隙間が、思考を動かすスペースとなりうる。
アイロニーが見えなくなる眼鏡
一つの思考実験として、「アイロニーが見えなくなる眼鏡」を掛けたらこの世界はどんな風に見えるのだろうか。
価値は見出され、増えていく
「僕たちは受け取った分しか返せない。あるいは、受け取った分すら返せないのかもしれない。でも、それで構わない。価値とは見出されるものである。知らないところで価値は見出され、知らないところで価値は増えてゆく。私の知らないところで。私の知らない時間で」
愛社精神を維持していたもの
年功序列の賃金システムがあり、その時代に存在した企業の慣行があり、その時代では愛社精神なるものがあったとして、昔の慣行を維持すれば愛社精神も育まれるだろう、というのは一つの推測としては成り立つが、賃金システムがそれを育んでいた可能性も考慮すべきだろう。
ネット・オーシャン
「インターネットの短いトンネルを抜けるとレッドオーシャンであった」
個人における概念体系(パラダイム)
「割合」とか「確率」とか、そういうものが知識としてではなく、概念体系として構築されているかどうかによって、情報の受け取り方も変わってくるのだろう。
Author rashita
LastMod 2021-07-24 (e30e62e)