2021年07月17日までのツイートノート
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BC016 『英語独習法』 - by goryugo - ブックカタリスト
弱い人間と人文知
「弱い人間」を取り戻す上でも、人文知的なものはきっと大切だろう。
「自己啓発」はその志向性(主に向上心)の点から、人間(つまり弱い人間)を置き去りにしていく傾向がある。
インタラクションの拒絶
とじることの、わかりやすい指標がインタラクションの拒絶(あるいは断絶)だろう。
何でもよい、から始まる
基本的に物事というのは「何でもよい」が起点であって、じゃあそこから何を選ぶ(決める)のか、というのと、避け難い何かを引き受けるのか、という話になる。
自分の興味とノート術
evergreen notes,second brain,pkm、的な概念と自分の興味はちょっと違っているなと確認する今日この頃。
フィードバック可能関係
誰かにフィードバックを返すには、その人との信頼関係というか親近感というか何かそういったものが必要になる。逆に言えば、そうしたものを築けていないと適切なフィードバックはまず返ってこない。
つまり「自由になんでも言ってください」という看板を掲げているだけでは足りない。
過剰でなければよい
自信過剰や自意識過剰、という言葉から見えてくるのは、度が過ぎた状態への警句であって、それらをわずかでも有することへの戒めではない。つまり、程度の問題である。
ちなみに、自意識過剰の場合は、「自意識を無くそう」という思いそのものが自意識なので、そのように注意を操作するのではなく別の対象に意識を向けるのが過剰の抑制につながるだろう。
マネジメント・マネジメント
「マネジメントが得意な人をマネージャーにする」というのではなく、hogeな能力をマネージャーの要件だとし、その開発と教育に投資すると決めるのが一つ上のマネジメントだし、それと共に「hogeな能力」という仮説が正しいのかを検証する視点を持つのもマネジメントだろう。
予測と実際
予測が立てられることと、その通りになることはイコールではない。
一週間通してみて平均2時間の作業をやった人が、ある日「今日は8時間やる!」と考えるのはだいぶ無謀、ということがわかる、というだけでも違いがある。というか、やってみてもいいけど、できなかったときに「なぜダメだったんだ……」と不用意に落ち込むことを回避できる。
あと、作業ログをつけること自体がすでに自分の人生に影響を与える行為なのだという理解も大切。義務的・強制的なものとして捉えるのではなく。
ちなみに、日々やったことを記録しはじめると、録音した自分の声が気持ち悪く感じるのと同じくらいの確率で、自分の「何もできてない具合」に直面することになる。でもまあ、それが出発点であることは間違いない。そこからはじめること。
造語ドリブン
自分で何か適当に造語したら、その新しくできた言葉によって自分の思考がドライブされるようなことがありますね。不思議な体験だ。
フルニュアンス
フルボディ、というような言い方で、フルニュアンスとか、フルコンテキストとか、何かそういう表現がしたくなる文章というのがある。
自己中心的
ジコチュー(自己中心的)という言葉があるが、ある人の世界認識において、その座標軸の原点Oは常に自己ではないだろうか。
悟りを開いていたら、原点がなくなる、あるいはすべての点が原点になる、ということになるのかもしれないが。
ダッシュボード性
やはり、dashboardは種類の異なる情報を一覧できるのが良さであり、それはつまり表示のさせ方が均一でないのが望ましい、ということでもある。
他人の生は悠々に見える
自分以外の人はいかにも悠々と生きているように見えるけども、まあそういうわけではないですよね。
本は本々として読む
ある本を読んで得られたのが着想メモ一行だけで、次に読んだ本ではそこら中に赤線を引きまくったとして、その全体が「本」なのだという感覚があるので、一冊の本が面白くないことでぷんぷん怒っている人を見かけると不思議な気分になる。
「この世界には自分が面白いと思う本しか存在してはいけない」というような規範性を持っているのだとしたら、だいぶやばい気がする。選本思想。
あるいは、一年に一冊くらいしか本を買わない人が手に取った本が、面白くなかったとしたらどうだろうか。
それでも、ぷりぷり怒るのはちょっと違う気がするな。
カードを入れる箱に注目する
Luhmannもカードを箱に入れていたわけで、私たちはまずカードに注目してしまうが、この「箱」も軽んじてはいけないだろう。
SNS的すれ違いだからこそ可能な論破
リアルな場で、相手を論破してやりこめようとすると、問題が解決するのではなくむしろ余計にこじれることが多いですね。SNS的すれ違いだからこそ可能な「論破」。
「正論棍棒で相手を殴りつける」、も同様の結果をもたらす。
性格と好むツールの傾向
たとえば大ざっぱな人は大ざっぱな手法を好むだろうし、神経質な人は神経質的な手法を好むだろう。でもって、その手法はそうした性質を助長するのではないか。
義務的な更新は続かない
個人的な情報をデータベースで管理していると、その更新作業がどこかの時点で非常に義務的になってくる可能性がだいぶ高い。そして、そうなると続けられなくなる。
評価されるための歩み寄り
他の人に評価されたいなら、評価されるように歩み寄ることが必要。そういう歩みを寄りを拒否してなお他の人に評価されたいと願っているならば、一体何をどうしたいのかをちょっと考えた方がよさそう。
あと、「高評価を受ける可能性と低評価を受ける可能性は同時に発生する」ことを受け入れないと、カルト的なものに吸い込まれるか、低評価を避けるために舞台に立たないことになるかのどちらかになりがち。
結果としての利他
利他であろうとすることは、直接目指すことができないのだろう。何か別のことを目指した結果として利他の性質を帯びる。あるいは、何かを避けようとした結果、それが利他となる。そういう感覚。
セルフマネジメントはフィードバックがない
ゲームだとチームのコスト超過はアラートが出るわけだけども、セルフマネジメントにおいては「やろうとしていること」が多すぎても警告が出ないのでフィードバックが働かない。
よって、時間の使い方を完全にバランスさせるのではなく、「ここまでできたらとりあえずOKとしよう」というラインを設けること。
異なる機能の要件
完成されたドキュメント(/プロダクト)を作るために便利な機能と、そこまでのプロセスにおいて便利な機能というのがあって、これが重ならないというか、まったく逆のときがある。
積読が主で、読書はたまたま
読書というのは、積読してある本のうち、たまたま読まれているものである、と。
でもまあ、その通りである。なぜなら、一度読んだ本だって、まだ十分に「読み切れていない」のだから、それもまた積読マウンテンの一部なのである。
それでも文章が書けない場合
日本語で文章が書けるリテラシーはある人が、それでも文章が書けない場合は、4つのパターンがあるように思う。 ・マテリアルの不足 ・マテリアルの引き出し方を知らない ・自身の規範性/審美眼の強さ ・マテリアルが多すぎて出口が閊える それぞれに対応は異なるだろう。
純化と苦悩
そこにある苦悩と直接向き合うのではなく、「苦悩など持たなくてよいのだ」という形でそれを解決するとき、ある種の純化が促される。
RTの悲劇
フォロー外のツイートがライムラインに現れることで、あたかも自分がそのツイートから「物申されている」感じを受けてしまう、というような。
行動の解像度が低い状況は不安
「努力する」が「頑張る」の言い換えでしかないとき、結局何をどうすればいいのかがわからない。行動の解像度が低い、とも言えそう。『独学大全』はたぶんその解像度を上げてくれる。
たぶん、若い人ほどこのままではダメで何かしなければならないと切実に感じているだろう。しかし何をどうしていいのかがわからないから焦りは強まる。そういうときに、具体的にやることを教えてもらえるとありがたいのだが、それが安易な成功法に結びついていると悲惨なことになる。
オンラインサロンなんかも、何をどうするのかの指針を与えてくれるので、漠然とした不安は消せるが、しかし、そこで得られるのは「このまま」なことだけで、つまり出発点の問題を解決できない。
ああいうのは、何かしらの「出口」だと宣伝されるが、その実体は「入口」なのだ。常に誰かによって「何をどうするのか」の指針が与えられる場への入り口。でもって、それは若い人が危機感を感じているそこらへんにある社会と同じなのではないか。
Author rashita
LastMod 2021-07-17 (a557c85)