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BC015 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

読者の変容

読者は──著者にではなく──他の読者に出会うとき、自らの読みを変容させる。

読書猿になる

そうえば『独学大全』裏テーマに「最速で読書猿になる」がある、というのをどこかで見かけたけども、これは勘違いされやすいというか、これだけ見るとまったく逆のように捉えられる可能性があるな。

一応補足しておくと、そこでの「読書猿」とは特定の誰かを指す固有名詞ではなくある概念というか状態を指す言葉であって、それはつまり「ぞれぞれの人が、それぞれの形で読書猿になる」を意味している。別にみんながくるぶしさん(中の人)みたいになる、という話ではない。

これは直接そういう話を聞いたというわけではなく、あくまで僕の解釈でしかないが、『独学大全』の最後の技法を読めばそのような意図であることはだいたいわかる。

とは言え、パラパラ読める本であるがゆえに、そういう部分はまるっと落とされて読まれる可能性もある。これはトレードオフだから仕方がない。だからこそ、こうして本の外部者がちょいちょいつぶやくことにも意味があるのだろう。

本は、それだけを見れば閉じたものであるが、しかし本は作られ、読まれるものでもある。その全体を捉えたときに、直接本作りに関わっていないものでも、大きなフィールドとしてはその本の「営み」に参画することができる。知の営為は、その性質からして完全に閉じることなど不可能なのかもしれない。

規格化という変換

ルーティーンに落とし込めない、ないしはブレイクダウンできないような目標に対して人は不安になりがち。そこで、あたかもそれがルーティーンであるかのように、ブレイクダウンできたかのように扱う──ある種の変換は──手法はありえるだろう。だが、それが変換を噛ませている点は忘れない方がよい。

分人主義における政治批評は可能か

分人主義における政治批評というのはどういう形になるのだろうな。

位置づけるために必要なもの

「位置付ける」ためには位置が必要であり、それは位置の媒質、すなわち空間や場を要請する。

高額だと感じられる本

「分厚さの割に3000円は安い」というのは普段本を買う人の感覚であって、平均的な年間の書籍代と比較すれば一冊3000円の本が「高額」だと評されるのはそう不自然ではない気がする。

むしろ、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買ってくださっている読者さんのことをきちんと思わないといけないのではないだろうか。

映画も細切れで

小説だと細切れに少しずつ読み進めていくのは気にならないというかごく普通だけと、映画だと微妙に躊躇する気持ちがあって、据え置き装置で映画を見ることがあたり前だったときの習慣的名残なのだろうなと感じる。

本は星10から始まる

背後にある苦労を思うと、一冊の本は書き上げられたというその事実だけで星10ぐらいあって、そこから減点方式でいろいろ引いていったとしても星5くらいにはなる。

遠近法のあるシステム

ウィンドウシステムに遠近法を導入するとどうなるだろうか。デスクトップにファイルやアプリが並んでいても、そのサイズが違っている、というような形。たとえば最近触っていないファイルは小さく表示される、というような。

反応ドリブン

刺激に反応して活動するのを反応ドリブンと呼ぶとすると、それは間違いなく生産数を最大化するのだけども、刺激が多すぎる現代社会ではそれはひたすらの疲れをもたらす。それは単に疲労ということだけでなく、中・長期的に何かをやっている感じが得られないからでもある。

足を止める情報源

何かをはじめてやろうとする。検索する。「できのよいもの」が見つかる。レベル60くらいの人が作ったもの。自分はレベル1。その「できのよいもの」を直接目指してしまい、うまくできないと落ち込んでしまう。手が止まり、足も止まる。やるべきはまず「レベル1の人が

「一歩進むこと」から目を背けやすくなる概念

才能、努力、自信、正解、やる気……

セルパブの校正の心がけ

セルフパブリッシングにおける校正作業は、自分が寝ている間に意地悪なエイリアンが原稿のどこかに間違えを仕込んだかもしれない、くらいの心持ちでやると良い気がします。

つなげる力の利用

バラバラなものでも並べれば、私たちの認識はそれをつなげようとする。だとしたら、私たちはそのつなげようとする力を積極的に利用するか、あるいは意識的に切断する中で新しい認識を獲得するか、という二つのアプローチが考えられる。

なにもわからない状態

「なにもわからない」なら、なにもわからないことすらもわからない。

直接至上主義

「直接」は効率性をもたらすが、しかしそのダイレクトさは行為の失敗を直接当人につきつけもする。つまり、直接至上主義は、なんらフラットなものではなく、それに耐えうる人に最適化された原理なのである。

救世主は個人でなければならない

救世主というのは個人だし、個人でなければならないとすら言えるのか。

シリアルレジャーとブルシットジョブ

シリアルレジャーとブルシットジョブ、という対比で何か考えられそう。

たまたまの要素

サンデルの能力主義批判の文脈で言えば、何かしらの"成功法"が「こうすれば必ず成功しますよ」と述べるとき、実践者の中で構築される世界像から「たまたま」の要素が抜け落ちてしまう、みたいなことがいえるだろう。

もちろんそれが抜け落ちているからそうした言説を求める、ということもあるだろうし、相互作用しながらどんどん強化されていくものなのだろう。

全体主義

全体主義はひどく効率的で、だからこそ行き詰まる。

ブログは書き手を育ててきたのか

ブログについてはジャーナリズムとの関係性などいろいろ複雑な論点があるだろうけども、もっと単純に「ブログは書き手を育ててきたのか」という論点を考えてみても面白いと思う。当然そこでは、フィードバック(/インタラクティブ)なシステムが重要な関心事になるだろう。

反単原理性

なんとなく、最近は何かしらの原理そのものではなく、ある原理一つですべてをやっていこう、という姿勢について懐疑的になっているな。原理原理主義への批判(あるいはメタ原理主義批判)。単一原理ではなく、複数の原理の重ね合わせでやっていく姿勢を持つこと。

中庸というのも、中庸が原理になった瞬間に同じ批判にさらされる。そうではなく、複数の原理を見据えた結果として出てくる中庸さである、ということ。

A陣営とB陣営が対立しているときに、C陣営として参加するのではなく、かといって裁定者として超越的に振る舞うのでもない。調停者としてその現場に参加すること。

そのような立ち位置は、AからもBからも味方とは思われない。外部者である。どちらにおいても、それぞれのゲームを混乱させる存在だからだ。逆に言えば、アウトサイダーだからこそ担える役割なのかもしれない。

アウトサイダーは目指すものではなく、たまたまそうなってしまうもの、どうしようもなくそうなってしまうものであろう。それを無理やりポジティブに変換するのではなく、そこで可能な役割を見出すこと(→価値とは見出されるものである)。いわば、変換を行うこと。

何かしらそういう試みが、自分なりの一つの道なのかもしれない。

後悔しないこと

「後悔する/しない」は、そのときに十全なことをしたのかの感覚の有無の話だろう。

相互作用

相互作用性のようなものが皆無なら自己組織化のようなことは起こらないだろう。しかし、相互作用性が極大化すれば、今度は何かしらの形を保つことができなくなるのではないか。

形を保つためには、「この部分は変わらない」というコア(とそれを区分けする膜)のようなものが必要ではないか。あるいは、「その相互作用のレベルでは、この部分は変わらない」というレベルに応じた仕切りが必要、と言えるかもしれない。

情報とインターネットの相互作用

「情報」と「インターネット」では、相互作用が強くなりすぎる、という問題があるかもしれない。手に負えなくなる。