2021年07月03日までのツイートノート
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第七十五回:Tak.さんとノウハウを本で伝える難しさについて by うちあわせCast • A podcast on Anchor
BC015『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト
Fateシリーズと作家の個性
Fate/stay nightがあって、Fate/Zeroがあって、Fate/strange Fakeがあって、それぞれが同一の歴史を扱いながらその文脈を転じさせていくのはさすがだと言わざるを得ない。
Fate/stay night→Fate/Zeroは、「こうであっただろう」歴史の創出であり、それを受けてのFate/strange Fakeは、こうであるかもしれない、という未来の創出である。それぞれにおいて、セイバー(アーサー王)の解釈が変化している。そして、その変化がまさに書き手の個性と強く結びついている。同一の世界を扱っているがゆえに、その個性が強く感じられるのは面白い。
情報の構造
情報はあらゆる形態を取りうるが、ある効果を持つためには特定の構造を持つ必要がある。それを探り当てるための活動に、多様なラベルが与えられている。ようするにあらゆる芸術活動がそうである。
物語というフォーマット
「簡単なことだよ。我々の精神のフォーマットが物語で出来ているなら、それを変容させられるのは物語だけだ。その他はただ表面をなぞるだけだよ」
切り分けることの価値
この世界はひどく込み入っていて複雑で混乱しているからこそ「切り分ける」ことが必要になる。還元した要素が真理だからではない。単に切り分けることで捉えやすくなり、思考を向けやすくなるからである。
ゴースト
こちらとあちらの狭間にあるもの。個を特定しうる「ささやき」をもたらすもの。
説得はしないが伝えることはする
「説得する意図はないが、自分の考えを伝えることはする」というもの、ある種のコンテキストの共有がないとなかなか難しいのではあろう。
英語力の必要性
まったく英語が読めなくても翻訳ツールに投げれば文意は取れる。しかし、その前段階はどうか。ニュースの見出しや検索結果に並ぶタイトルをざっと見て私たちはその中から選ぼうとする。その段階ですら検索が必要ならば圧倒的に効率が落ちる。 さらに日本語だと言葉のチョイスから全体の雰囲気(ブイブイ系だなとか落ち着いてる系だなとか)を判断し、それも判断材料になるが、それも使えないとやはり効率は落ちる。
単一でない価値基準
「論語!」でも「算盤!」でもなく、「論語と算盤」なんですよね。少なくとも単一の価値基準ではなかった。「と」の在り方。「自由と礼節」
情報保存のスタイル
・情報をただ保存しておくだけ ・最初からかちっと形を決めてそこに入れ込んでいく
この二つの間があると思うんだよね。
『小林さんちのメイドラゴン』の関連作品
異種族にフォーカスすると『葬送のフリーレン』が関連作品になり、非血族的家族にフォーカスすると『ラララ』と『の、ような』あたりが関連作品になる。
人文的実用書
基本的には実用的な情報というかプラグマズティックな情報に中心的な関心があるのだけども、それを真剣に考えていくと、どこかでその領域をはみ出してしまうようなところがある。
どうあがいても実用とは人間による実践であり──『人文的、あまりに人文的』で示されている通り、──それは人文的でありえる。すなわち、哲学的であり、政治的であり、芸術的であり、文学的でありえる。
だかこそ、僕は実用書なども「小説であるかのように」読んでしまうのだろうし、スマートに書かれたそれが物足りなく感じるのだろう。
たとえば「やることリストを作る」という簡単そうな行為ですら、単純なシステムでは回収できない要素がある。それを「余計な話」として削ぎ落とさないこと。
そういう姿勢が、人文的実用書のスタイルである。
自信はなくてもよくても
「自信はなくていい」という言説。「自信を求めている自分が悪いんだ」という自責に容易につながりそうな気がするな。
思うに、もろスパルタ的なものがそうだったらまあそういうものだろうという感じだが優しいものの中にそういうものが含まれていると逃げ出す場がなさそうである。
ブックファイト・クラブ
昨日から「ブックファイト・クラブ」という着想がたびたび頭をよぎる。だぶん名前からして読書会なんだろうけども、なにせそのルールが「ブックファイト・クラブについて口にしてはならない」だからこれ以上はわからない。
インテリ問題
「インテリざまあ」と嗤っているだけで状況が良くなるわけではないし、インテリが自虐しているだけでも同じこと。
進むべき道の指針
「正解」の道はわからないが、新しい問いが立つならその道は進むべき道であるように思える。
home感覚とroot感覚
ツール使用におけるhome感覚とroot感覚の違いを検討してみたい。
rootは、そこから移動してどこかにいくことが規定。homeはそこにいることが規定で、たまたまどこかに出かけて帰ってくる、という感覚だろうか。
共同体を成り立たせるために必要な何か
根源的なレベルでは何をしようが個人の自由なのであるが、それでも何かしらを成り立たせようと思ったら超えてはいけない線というのはある。
サンデルさんの正義(ないしは共通善)についての議論は後者にフォーカスしているのだろう。逆に、いきすぎた市場主義・能力主義(あるいはその悪魔合体したもの)は、前者を徹底すればあたかも後者もうまく成立するという論はこび(むしろ言い訳に近い)になっている。
世界の価値
価値とは見出されるものである。この世界には、あなたが見出した分だけの価値がある。
二つの領域の橋渡し
数学や哲学が敬遠されるのはそれが抽象的だからだろう。一方で、それらが思考に役立つのはそこに抽象性があるからだ。
ノート術やら手帳術は、常に具体的である。そこに物があるからだ。これがアプリケーションの話になるとすこしだけ具体性が薄れるが、それでもそこに目に見える何かがあることは変わらない。
だから考えたいのは、具体から入っていかに抽象に抜けていくのか、という構造。二つの領域の橋渡しを設計したい。
大切なのはワークフロー
新しいツールを導入しても、ワークフローが変わらないなら結果も変わらない。むしろ、ワークフローを変えるためにツールをどう使うのかを考える。
インセンティブのゲーム
あらゆるものをインセンティブのゲームとして見ること、しかもそれが金銭的な報酬や刑罰としてのみ扱われること、そしてそれを原理的に肯定してしまうこと。そこにどれくらいの効率があるにせよ、頷き難いものがある。
普段使いの知的生産
言いっ放しと学術論文の間に広がっている広大な領域を開拓したい。
現実を「複雑化」させる
僕らの連帯を阻害しているのは、敵味方という認知の切り分けであって、だったらその認知を撹乱させるのが一番で、そのために現実を「複雑化」させるのが良いのではないか、というような。
「みんなが味方」という方向では、常にその外部が疎外される可能性があるのでダメなのだと思う。
言い換えれば、「みんな」の認定に審級=権力が関与してしまう。
VRは新たな連帯を可能にするか
「VRは新たな連帯を可能にするか」みたいな問いを、たとえば無知のヴェールと絡めて議論したら面白いようには思う。
企画案を置きにいかない
器用な人であれば企画案を置きにいくことはそう難しいことではないように思う。ようはパターン処理なわけだから。一方でそれだけで終わらせるならn番煎じ以上にはなりくいだろう。
別にそうした情報処理が不要というのではなく、それは編集者さんが考えてくれるだろうから、著者の立場で仕事ができるなら役割分担として全力で遠くに投げるようにする、ということ。でもって、その二つの思考の引っ張り合いで何か良いものが生まれるのではないか、と期待する。
ゴルディロックスな制約
何も制約がなければ、無限の可能性の前で何もなせなくなる。そこに制約を入れれば行為は可能になっていくが、あまりにも制約が強すぎると、自分の可能にあった選択肢が残っていないことが起こる。ゴルディロックスな制約が好ましい。
物事はだいたい両義的
物事はだいたい両義的で、意識的にえいやと切断しない限りは反対のものが含まれているのは珍しくない。
自分なりの考え
たくさん本を読んでいる人が、必ずしも「自分なりの考え」を持っているわけではなさそうなので、何か別の要素があるのか、本の読み方・選び方にあるのか、突然変異的な何かなのか、まあいろいろありそう。
そもそも、「自分なりの考え」の獲得は、その個体から見ると生存に不適切な可能性もある。
パターンがわかる
自分で何度か書いたおかげで、他の人のコードを見たときに、「あ、ここでコマンドライン引数の処理をしているのだな」ということがわかるようになってきた。具体的な中身はわからなくても、全体における位置づけ(役割)が捉えられている。
これは多少コードを読めるようになった、ということだが、そこにパターンが関係している。
読んで学ぶ→実際に書く→他の人のものを見る、という流れの「学び」は、パターン形成の流れでもある。
想像もつかないものにたどり着くには
この世界には想像もできないつらさやしんどさがあるとして、どうしたら僕たちはそれにリーチすることができるだろうか。
捉えがたい「たまたま」
「たまたまそうなった」とか「一定の確率で(意図がなくても)起こる」のような捉え方が仮に難しいとして、その難しさをトリガーしているのは何なのだろうか。生物学的なものか、それとも文化的なものか。あるいはその絡み合いか。
ビジョンの二面性
ビジョンは、理想に溢れた計画と「こういうことを成したい」という欲求の結節点である。Re:visionはそのほつれた糸を結び直す行為である、と言える。
階層と問題
階層を一つ上ると目の前にあった問題は相対的に小さくなる。しかし、視野が広がったことで、状況が含む問題は複雑になる。
能力主義の弊害について
結局のところ、サンデル氏が批判のまなざしを向ける能力主義は、その背後に資本主義(というか市場原理主義)があって、ある種の順位付けとその正当化のために能力主義が持ち出されているのだろう。そこで言う「能力」も、そうした功績に貢献するものだけが含意される。
資本によって「能力」が高められ、その「能力」が新たな資本を呼ぶステータスへと変換される。そこでひどく純化が行われ、「そうでないもの」がすべて疎外されていく。
その解決を、能力主義でない別の主義にスライドさせても結局は同じことなのだ。その主義が同じ用途で扱われるだけだろう。単一の基準による順位付け、という競争そのものをどうにかしなければいけない。
しかしそれは、競争というものの直接的な解体を取るべきではないだろう。結局その空き地に別の競争が入り込むことは目に見えている。むしろ多様な競争の在り方を混ぜ込むことで、単一の競争を撹乱することが効果的なアプローチではないだろうか。
教養というものに、何か実際的な価値があるとすれば、単一の基準から逸脱できるようになることだろう。逆に、「ビジネスに役立つ教養」というのはすでにその競争に取り込まれていることを示唆する。役立つことはあるにせよ別の仕方で役立つのだ、という提示が必要ではないか。
あるいは、「ビジネスに役立つ教養」をやっていたつもりが、気がついたら別の場所にいた、というような。
ミニマムな知的生産
Noratetsu Lab: 発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~
上の記事で行われているのが、ミニマムな知的生産活動と言える。ある個人の思いつきを、他の人でも使える(広い意味での)概念に整形する行為。そしてその行為における、見出し・表札・タイトル・名前の重要性が伝わってくる。
個人の脳内だけに閉じていた着想が、整形されることで他の人も使える道具(概念・フレーズ)に変換される。その過程が「ひらく」ということだろう。でもって、他の「ひらく」行為と同様にこれは結構しんどいことで、「楽さ」や「自然」を至上命題としているなら率先して実行されることはまずない。
Author rashita
LastMod 2021-07-03 (c7445a9)