ポッドキャスト

第七十四回:Tak.さんと新刊と近況について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

BC014 アフタートーク&倉下メモ - ブックカタリスト

「自分なりの」と「自分だけの」

個人的な感触だが、「自分なりの」と「自分だけの」にはかなりの違いがある。「自分なりの」はあくまで自分との相性を起点とするが、結果的にでき上がったものは他人と似通っていても気にしない。一方で「自分だけの」は他人との違いこそが重要であり、自分との相性を差し置いても他人との違いが維持されていることが重視される。

単純と複雑の対立

現在起きているのは、科学:非科学の対立というよりは、単純:複雑の対立で、そこに想像力が関わっているような気がする。

誰がための広告

あらゆるトラッキングを拒否したときに出る広告は、誰のための広告と言えるか。

単純化と分断

単純化しようと思えば、関係性を視野に入れてはいけない。関係性を視野に入れた途端単純なことは言いにくくなる。このことから、単純化とは分断的であるとも言える。

カミカゼ五輪

このままいくと、後世では2021年のオリンピックはカミカゼ五輪と呼ばれるかもしれない。

物語におけるatomなもの。

物語のatomは登場人物でも世界設定でもトリックでもなく、シーンである。

電波

不可思議な着想が電波(あるいは電波的)と呼ばれるのは、示唆的ではある。目に見えないが、確実に現実に作用を与えるものがそこでは意図されている。

投げやりになったらそこで終わり

麻雀というゲームに限らないけど、投げやりになったらその時点でゲームオーバーなのであった。

極大化する自己責任

「たまたま」に代表されるような個人の裁量の外側にあるものを排除していけばいくほど、その個人にのしかかる責任は極大化していく。

異なる領域で頭を使うこと

ある場所では自分で原稿を書いてそれにコメントをいただき、別の場所では他の人が書いた原稿に自分がコメントをいれている。頭が混乱するかというと、別にそういうわけでもない。

反対のことをしているからバランスが取れている、といったことではなく全然違うことをしている感覚がある。まあ、実際プロジェクト的にはぜんぜん違うわけだけども。

意見交換の価値

他人と意見を交わすことに煩わしさが付随するにしても、一人で頓珍漢なことを確信してそのことにまったく気がついていない状態が長期的に続く怖さを考えれば、トレードオフとしては十分に価値がある。

食材と調理法

調理法に合わせて食材を選ぶのは適切だろう。しかし、調理法を固定して食材を気にしないのはいささかもったいないことが起きる。かといって素材にまかせるままで調理法について気にしなくてよいわけでもない。簡単ではない問題だ。

やわらかい消費の中で行われる言い間違いのような反抗

やわからい消費が全体を包み込む中で、そこに向ける抗いすらも消去(=やわらかく包摂)されかかっている中で、ある種の残滓として(ないしは「いいまちがい」であるかのように)行われる消費における差異化(反抗としての、しかし内側で行われる消費)。

想像力のエンジン

人を支配下におきたかったら、その人の想像力のエンジンを徹底的に弱めてしまえばよい。そうすればその人は「今」の中だけに注意を置き、そこからの逸脱を意図しようとすらしなくなる。

支配者が本を焼くのは、文化的な象徴的行為でもあるし、そこに書かれている情報にまずいことが含まれていることもあるだろうが、それ以上に「今こうある世界とは別の世界」についての想像力をはぎ取るためだろう。

確率概念はインストールしないと使えない

「確率」という概念は、脳にインストールしなければうまく使えないのだろう。ストリーミングとかクラウドとか、そういう「利用」の仕方では足りないのだろうと感じる。

ストレスフリーの代価

100%ストレスフリーに生きられるとして、その代価としてすさまじく傲慢になるとしたら。その取引の価値をどう見定めるかは、もちろん人によって違うだろう。

素直な「思い」を取り出す

ナチュラルな「思い」をそのまま取り出せるときもあるし、儀式やら工程を経ることでなんとかとり出せるときもある。

「うまくやるための方法」がうまくできないからうまくやれないという状況

「うまくやるための方法」がうまくできないからうまくやれない、という状況を打破したい。

一つには、具体性にフォーカスし過ぎて一つ上の階層に上るという観点が欠落している点があるだろう。その解決は、いきなり抽象に触れるのではなく、具体から抽象に上る体験をすることではないだろうか。

大切な教え

「いいかい。ひとつだけ大切なことを教えてあげよう。積んだ本の数は数えるな。わかったかい。それじゃまた」

ユーザーは静止していない

ツールに慣れるまでは細かいアシストや指示があった方が使いやすいだろうが、慣れくるとそれらは不要になるし、邪魔ですらある。でもって、5年ユーザーがそのツールを使うなら4年以上は「慣れた状態」で使うことになる。そうしたときに「細かいアシストや指示」がオプショナルかどうかは大きい。

言い換えれば、ユーザーは静的に止まっているわけではない。使ううちに変化していく。最初は慣れないせいで「無知で愚か」かもしれないが、経年と共にそれは変わってくる。

本も同じで、辞書的なものでないならば、1ページ目を読んでいるときの読者と最終ページを読んでいるときの読者はまったく同じではない。でもって、同じではないという想定があるからこそ、組み立てられるコンテンツがある。

可変的であるという認識

DoMAでは、「見本」を示さずにユーザーがボトムアップにやっていくことを提示しているので、自分の注意に敏感になり、またその注意が流動的であるので、それをベースにすると構造も流動的になっていく。

構造を変えてよいのだ、という捉え方は流動性レベルで言えばまだ低い方で、目の前にある構造は単に暫定的なものでしかない、までいくとかなり高くなる。

認知のラディカルな変化

たとえば、ユーザーが頭の中に「情報を強い分類によって整理する」というメンタルモデルを持っているなら、どんなツールを使っても、まずそれを実行しようとする。そうでない方法は、だいたいにして「しかたなく」とか「いやいや」とか「しぶしぶ」で行われる。

だから、Aタイプの整理からBタイプのへの整理の移行は、やっていることは客観的にそうかわっていないように見えて、ユーザーの中ではかなりラディカルな変化が起きていると言える。

自らを超えていくものを許容しているかどうか

自らを超えていく根源的な力を抑制するすべてはとじているといえるだろう。

先達に敬意を抱きながら、それを超克する駆動力を持つものを促せないなら、やがて全体が低迷していく。

新たな想像力の力が必要なとき

想像力を放棄すれば、目の前にある選択肢からしか選べなくなる。新しい分岐が必要ならば、想像力が必要なのだ。新たな想像力が。

ツイートの振り返りとカードをくること

一週間分のツイートを読み返す。読み返すだけでなく、気になったものはピックアップしてテキストファイルに保存する。その際に文面もいじる。すると、「そういえば以前これに関連することを考えていたな」と思い出す。検索する。さらに過去のツイート転記が出てくる。そこからまた考える。

結局こういう行為も、梅棹が言った「カードをくること」なのだ。こういうことを小さく続けていくのかが大切なのだろう。多重の自分で考えること。