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BC014 『How to Take Smart Notes』 - ブックカタリスト

第七十三回:ぱだわんさんObsidianについて by うちあわせCast • A podcast on Anchor

道具についての思考の難しさ

道具について考えるのが難しいのは、慣れの要素がある点。慣れるほど使わないと理解が足りないが、慣れるほど使うとそれが剥離できなくなる。

それは「人間でない状況」においての思考が人間には極めて難しい、ということに似ている。

悪い部分しか見えない世界

たとえば呪いにかけられて、他人の悪い部分にしか目がいかず、良い部分はまったく目に入らない状態になったとしたら、その人にとっての世界は地獄だろう。

タスク・プロセッサ

アウトライン・プロセッサがアウトラインを「処理」して何かを生み出すための装置であるのと同じ意味で、タスクもまた「処理」されなければならない。そしてその処理とは実行だけに限らない。

アイデア・プロセッサ

アイデア・プロセッサというのは、アイデアを生み出す装置ではなく、アイデアを処理して何かを生み出す装置なんだよね。

たとえば、その処理を「変換」と位置づけると、いろいろ広がりが出てきそう。

アウトライン・プロセッサが、アイデア・プロセッサとも呼ばれていたことはなかなか示唆的である。

ビジョンに向かって変えていく

そのときの自分に書けることを書いてはい終わり、というのではなく、あるビジョンに向かって新しい書き方を模索していくこと。それは別にストイックでもなんでもなく、そのようにして自分の書き方が変わりうるのだと体験することの面白さがそこにあるのである。

時間のかかる仕事を避けない

企画案を考えるような作業は、時間がかかるというか、どのくらい時間がかかるのかが事前にはわからないし、一定になりようもない。時間の使い方を完璧に統制したければ、そういう作業を徹底的に減らしていくのが一番だろうが、それで数年後にどうなっているのかは、まあ誰にもわからないけれども。

規模で変わるもの

老婆心的に書いておくと、保存する情報が極めて少ないときは管理の構造は不要で、ある程度増えてから一定の規模まではサイドバーリスト的なものが便利に使える。でも、その閾値を超えるとサイドバーの一覧はほぼ役立たずになる。機能させるためにはフォルダ分け的なもので分割しないといけない。

しかしその数がさらに増えるともはやどこに何があるのかがわからなくなる。結果として、「直近のもの」「検索」「リンク」のアプローチに頼ることになる。その際、別にサイドバー的なものがあっても悪くはないがそこで管理してしまおうとする促しがある点には注意が必要。

でもって、基本的に知識的なものは増え続ける。その数年先まで耐えうる設計なのかどうか、という点が結構大切。

情報環境の構築におけるテスト

事前にそれらを見つけ出せる完璧な構造を作っておくのではなく、使いながらルートを開拓し、強化していく、という情報管理。

自分がどんな風に情報を探したのか(見つけられた or 見つけられなかった)というのを、(プログラミングにおける)「テスト」だと捉える。その結果を踏まえて、環境整備を進めていく。

圧がある言葉

強い言葉とは、圧がある言葉ということで、それが好まれるのは(広義の)面積が小さくなっていることを意味しているのだろう。

直接ではないものたち

強い言葉を使わない、という強い意志はありうるだろう。強い言葉→強い意志とは限らないし、強くない言葉→強くない意志とも限らない。

物書きにとっての職業的倫理観

物書きにとっての職業的倫理観とは何か。あるいはそれぞれの物書きにとっての。

良きことを書くこと。とじた物語に人を閉じこめないこと。そんな感じだろうか。

無価値観との付き合い

自分が作るものの無価値感との付き合いは、「価値なんか知るか、かんけーないわ」的振り切りをしない限りは続いていくのだろう。

ぜひ読みたいしか読まれない

これだけコンテンツがあるのだから、器用な人がその器用さをただ発揮させたものが読まれるのはなかなか難しいのではないか。むしろ、その人の内外の情念(「これについて聞いてくれ!」「これをすごく面白く書きたい!」)こそが、惹きつける要素になるのではないか。

やわらかい消費

消費の持つやわらかさは、その特性によってどこにでも入り込んでいく。

狭間にある気持ち

本は読みたければ読めばよいし読みたくなければ無理して読むものではないが、そういう単純な割り切りの狭間にある気持ちもあるだろう。

なんとなくの頓珍漢な理解

たとえば、外国語を読むとき、慣れていないと知っている単語だけ拾ってなんとなくの意味を推測することがある。もちろん、頓珍漢な意味だったりまったく逆の意味になることも珍しくない。でもってそれは母国語でも起きる。一文だけでなく、本一冊ですら起きる。

「理解できないものへの恐怖」への対処

その1 何がなんでも理解しようとする

その2 目を逸らして恐怖を遠ざける

その3 ?

すべては

「すべては断片である」

「すべてはin processである」

限定して考えること

「限定して考える」のは、「広い領域で考える」ことなのであろう。

不安定な万能感

閉じた状態は「不安定な万能感」を呼びがちで、その不安定さを解消するためにより閉じた方向に向おうとすると状況は悪化する。むしろ逆のアプローチが必要。

たとえば承認という他者性が、それまで問題だった多くのものを非問題として解体する、といったことがある。無関係に思える問題が融解していく。

言葉に仮託されるイメージ

一つの言葉にそれぞれの人が自分のイメージを仮託していく。そこで起こる現象とはもちろん混乱であり、混沌であるのだが、だからこそ新しく生まれる何かもある。

権力について

権力の行使というよりも、権力の無自覚な行使が厄介な問題だ。

原稿のフィールドワーク

α稿を書くときに何をしているのかといえば、たぶんフィールドを歩いているのだろう。

面白がってみることについて

ファースインプレッションとして面白いとは思わないものを面白がってみる。「面白いのだとしたら」、という仮説に立ってもう一度見つめ直してみる。それが直感的な反応という檻の外に出るための方法だろう。

自分が自分の説得者になる

メタのアプローチ。「こうしたい」という思いがあるとき、「こうしたい」で終わらせるのではなく、かといって「こうしたい」を「こうできる」に直接的につなげるのでもなく、「だったらこういう風にやってみたらどうかな」と自分に向けて提案すること。

一部と全体の勘違い

一部を全体に取り違えてしまうこと。ある人の行動への評価をその人の評価にしたり、特性のデメリットだけに注目してメリットを無視したりと、部分を「直接的」に全体を代表させてしまうと見過ごすものは多い。そして、そういうときほど確信感は強い気がする。

疑うと信じる

「疑う」は「信じる」はセットでないと、疑うことが自己目的化しかねない。

老いの嬉しさ

普段はあまり意識はないけども、若い人と話していると自分が年を取っているのだなと強く自覚する。でも別に落ち込むようなことはなくて、若くて優秀な人がこの社会にいるんだなとわかるのはちょっと暖かい気持ちにもなる。

問題解決の勘違い

https://twitter.com/ryohoben/status/1403903595758510085

なかなか闇が深い。

強力なリーダーシップが発揮されれば構造的な問題でも解決される、という認識。何かしらの成果をネットワークではなく単独の個人の「おかげ」だとする行き過ぎた擬人化。魔法のようなAIの力。いろいろ詰まっている。

知的生産の技術で開発される能力

「知的生産の技術」やその実践で開発される能力は、アカデミックやビジネスでの成果だけの話ではなく、人生に生じる「難しい問題」と向き合うための(知的な)体力にも影響してくるように感じられる。

考えてみると、僕がそうした技術に興味を持っているのは、まさしく「難しい問題」と向き合うためなのだ。だから、「難しい問題」は実は簡単な問題なんです、という言説にはいっさい惹かれない。

そういう言説の人たちからみると、僕が疑似問題に取り組んでいることになるのだろうし、僕からしたらそうした言説は「難しい問題」を矮小化していると思える。すれ違い以前の問題である。

片方はpassion & hobbyについてであり、もう片方は処世術についてなので、カテゴリーが異なるとも言える。

それはそれとして、他人が真剣に取り組んでいる問題を疑似問題だと嘲笑する態度はあまりかっこよいものではない。むろん、アクセントは「嘲笑」にある。

価値観を薄めていく

捨てることは必要で、捨てて良かったかどうかはたぶんわからない。ただ自分の価値判断が絶対なものではない、ということだけ引き受けたら良い気がする。つまり、その判断に固執しない、というような。

フィードバックが必要で、そのためには「捨てようとしたものでも価値が生まれた」という体験が必要だが、問題は価値判断でイジェクトされたものは価値が見出されることはないので、そのままではフィードバックが生まれない点。

「価値があるかどうかはわからないが」を伴う発信・発言によって、たまたま価値が見出されるときに、それがフィードバックとして機能する。自分の価値判断に閉じていると、それが生まれない。

でもって、やっぱりそれは「価値があるかどうかはわからないが」を伴う発信が可能な、心理的安全性を持った場所が必要なのだろう。いきなりすべて「本番」では(つまり「直接」本番では)、なかなか難しいだろう。

人の価値判断は、それまでの経験(フィードバックの総体)によって形成されるのだから、それまでとは異なる経験を増やして以前のものを「薄めていく」のがアプローチだろう。

しかし、それまでの経験が行動の傾向を作り、それはフィードバックを同質化してしまうので、価値判断が固定されてしまうことは非常によくある(むしろ、安定的な生活とはそのような傾向によって生まれるものだろう)。だからこそ、他者というdisturbをもたらすものが、「意外に」重要だと言える。

「自分ごとき」の絶対感

「自分ごとき」、のその審級はどこから生まれてくるのか。つまり、自分を「ごとき」として定位できるのは、そこに超越的な視点が暗に設定されているのではないか、と考えることができる。

可変性のなさ

可変性のなさは、別の表現では「直接的」な表れとも言える。理想的な形のイメージが直接目の前の形を支配してしまう。I = Rの構造。これをズラしていくのがシェイクであり、Re:visionでもある。

インフルエンスへのおぼこい憧れ

ビジネスというか商売をまったくやったことがない状態で、“インフルエンス"なビジネスモデルに憧れをいだいちゃうのは仕方がないと思うけども、実際にやりはじめてなおその状態が続くならいずれはヤバくなりそう。

《読者のことを考える》の転用バージョン《お客さんのことを考える》を自分なり実践して、価値について判断し、決断を下すことが必要なわけだけども、そういう話がまるっと飛んじゃっているわけで。

もちろん、そういう思考の営みは、安直な答えがあるものではないのでなかなかしんどさがある。むしろ、そういう「安直な答えがないことについて考え続ける」ための技術と実践が欠落していると、安直なビジネスモデルに飛びつきやすくなる、とも言えるかもしれない。

「考えなくていいんです。ただやればいいんです」も、ようするにノーモデルなビジネスモデルという点では同じ。現実や物事を安直な答えのもとに落とし込んで、考え続けることを拒絶している、あるいはそれを肯定している。

見通しが甘いからできること

だいぶ手直しが必要なことが明らかになりつつある。もちろん、連載原稿をガシャんとしたら本になるなどとは考えていなかったが、想定よりも大きな手術が必要である。

でも、最初からその工程を完璧に把握していたら、きっと手を出さなかったのでないかと思うので見込み違いも悪くはない。

でもって、一番最悪なのは何も見込まずガシャんとだけしてそれで良いとしてしまうことだ。

極めて良い本を狙ってくる作ることはできないにせよ、「ガシャんとだけしてそれで良い」とする姿勢を避けることは意識的にできる。そしてそれは、何らかのビジョンをツ持つ、ということである。それを一切回避するのは「自分が楽なら、それでいい」という閉じた価値観にすぎない。

傲慢と尊厳

結局のところ、「傲慢と尊厳」が主要な問題であって、つまりそれは想像力に関係している。

エンジニアリング原理主義みたいな立場だと、想像力がなくてもうまくまわる制度を作ればいいんだ、という話になるが、しかしそれは傲慢さを抑制したりはしない。そしてまさに、そのような考え方こそがその証左である。

そのような考え方においては、個々の人間は制度の中の一要素でしかない。array[1]としての個人。それは番号で人を呼ぶことと通底したやり方だと言える。尊厳は著しく貶められる。

他者に対して敬意をいだけるのは、まさにそこに「人」がいるという感覚があるからで、それはイマジネーションの産物なのだ。チューリングテストを逆向きに眺めればそういうことになる。

断ざずにはいられない人

それはそれとして「読む価値のない本」って何だろうか。「読んで価値が感じられなかった本」ならまだわかるのだが。

なんとなく、本について言及しているようで、その実自分の知性の高さを誇示している気がする。

価値があることを断じるのと、価値がないことを断じるのは非対称であろう。なぜなら、価値は(物理的なものではないという意味で)そもそも「無い」ものだからだろう。つまり、その指摘は何も言っていないに等しい。