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BC013アフタートーク - ブックカタリスト

第七十二回:Tak.さんと粒度を揃えたくなる現象について by うちあわせCast • A podcast on Anchor

辞書にない文字

ナポレオンの辞書には「不可能」という文字がないらしいけど、「自分のミス」という文字がなさそうな人はちらほら見かける。

手作り小説の希少価値

時代が進んでかつての「手書き原稿」に希少価値が出ているわけだが、さらに時代が進むと「手作り小説」に希少価値が出るのかもしれない。AIによる小説の自動作成があたり前になった2045年……、みたいな。

不「自然」な趣味

長時間じっと座って本を読むというのは、たぶん「不自然」なことだし、床が抜けるかもしれない可能性と付き合いながら読み切れないであろう本を買い続けることも「不自然」なことで、イノセントに「人生がきらめく!」みたいに言えないところがある。

退屈に対する鎮静剤

退屈に対する鎮静剤、時間を無駄にしている苦痛に対する鎮静剤。その過剰摂取の先にあるものとは何だろうか。

人生は突然

突然。人生は突然だ。だから僕たちは、それに歯向かうように準備や計画を立てる。争いとしての管理。エントロピーに立ち向かう生命の鼓動と共に。

イデオロギー対立のさらに先へ

左右のイデオロギーの違いなんか軽く見えるくらいに、反ワクチン的な思想の乖離は大きいように見える。

すべてではないからこそ

当たり前の話だけども、一冊の本で「すべて」を伝えることは無理なわけだから、何をどう伝えるのかという焦点が問題で、だからこその難しさと割り切りの必要性がある。

想像力

想像力とは「そうだ」ではなく「かもしれない」を思い描く力であり、現実を相対化し、未来を描くための力でもある。

電話でリクエスト

電話で好きな曲をリクエストしてUSENで流れるのを待つ、みたいなのは現代では想像もつかないだろう。

意味アウトライン・形式アウトライン

意味段落・形式段落から、意味アウトライン・形式アウトラインといったものを想像してみる。

知的にはしたない

「知的に、はしたない」というフレーズを思いついた。自己の経験のみから一般則を断定し、他人を断罪する行為などを指す。釣り針が活躍する場所でもある。

一部は科学的

中身はさておくとして、ワクチンで5Gといった言説が「科学」の衣を纏っているのは興味深い。ワクチンを打ったら呪われるとか、悪魔憑きになるとか、そういう方向にはなってない。

フィードバックが少な過ぎる

YouTubeを見ていても思うが、数字しかフィードバックがないと、投稿している動画の何をどう変えていけばいいのかがわからないのだろう。情報が少な過ぎる。

非-程度の問題

「1mmたりとも他人に迷惑をかけてはいけない」が反転すると、「1mmすらも他人に迷惑をかけるかなんて気にしない」となる。たとえばそれは、一度「敵」認定したら、味方に行っていた配慮が一切消えうせる、というのと同じように。それがつまり、非-程度の問題。

また、「1mmすらも他人に迷惑をかけるかなんて気にしない」となると、そういう考えを持っていること事態が他人にどういう迷惑をかけるのかも気にしなくなるので、無敵状態へと突入する。

これはつまり、単一の原理ですべてが調和的に動いていることの危うさ、ということでもある。

何もかもが滑らかにいっている(ように思える)なら、そのしわ寄せが見えないところに行っているだけなのだ。

ズーム状態での移動の感覚

ターミナルのcd、Workflowyの兄弟移動、7wrinerのスライド、どれも似た感触がある。

反応に困る言説

「筋トレは疲れます。筋トレをやめれば疲れません!」みたいなことをドヤ顔で言われても反応に困る、みたいなことがある。

自己に対する興味と自信

自分にしか興味がなく、自信に溢れている(というよりも自己に対する疑義が生じていない)人にウケるコンテンツというのがある。

逆に、自己に対する疑義が強過ぎて、他者に対して攻撃的になってしまう人もいるのだろう。

熱量を持った本の紹介

たくさんの本が出てくる本が好きだが、だからといって単にたくさん本が紹介されていればよいというわけでもない。その筆致から「ほら、この本面白いんですよ!」という熱気が伝わってくる本がよいのである。その熱気がなければ単なる衒学と見分けがつかない。

ボトムだけ

上部構造の構築から入らず、ボトムで乱雑に書き留め、そしてそれらをボトムアップすることすらも強要しない、というツールの在り方。

正しいのは一人だけゲーム

「正しいのは一人だけゲーム」の渦中にいると、自分(たち)が「正しい」であるためには、他の人たちはすべて間違っていなければならない、が要請されてしまうわけだ。

入力はできるとして操作はできるのか

たとえば十万字相当の書籍で扱いたい要素をすべてマインドマップ的なものに落とし込むことはできる。デジタルならさらに容易。しかし、そうしたところで、その全要素が「扱える」のかというとかなり厳しいだろう。

一つの画面に全要素は表示できないし、表示させようとすれば各要素を見えなくなる程度まで縮小させる必要がある。だから、ある種のグループ化が行われるのだが、グループの看板はそこに含まれる全項目と等価ではないので、全グループを一覧できたとしても、それは全項目を扱っていることにはならない。

これはツールの問題でもあるが、「ぼくがかんがえたさいきょうのつーる」が出てきてもきっと解決しないだろう。そもそも、項目総数自体が、人間の認知が扱える上限を超えているのだ。

だとしたときに、「全項目を直接扱うわけではない手法」が要請されるのだが、はたしてそれが本当に最適なのかは一考の余地がある。

また、それとは別に、全体が大きくなればなるほどそれを扱うのは認知的に難しくなるわけだから、その中身を精緻にコントロールしようとしたときにコンテンツのサイズは大きければ大きいほど良いとはいえなくなる。逆に言えば精緻なコントロールを達成しようとするとき、そのサイズはある限度を持つ。

一方で、精緻なコントロールというものが不要なのだ、という考え方もあって、これはこれで一つの選択ではあろう。

ただ、僕はアナーキーに構成なんて不要ですと安易に主張するのでなく、それらの有限性を織り込んだ上で、いかにして「全体」を考えられるのかを考えたい。そしてそれは、知的マッチョではない人にも全体を捉えやすい本を生み出すのにつながるのではないか、と予想している。

ホラーな議論

藁人形論法というのがあるが、ありもしない概念を自ら生成し、それを攻撃して(もちろん論破して)、ほら自分は正しいんですって言い続けているの、ちょっとホラー感があるな。

無敵な議論

一般性や普遍性への言及なのに、その言説や発言者が無意識に外に置かれているものは、うむむ、という感じがしてしまう。

別に発言そのものが例外になってはいけない、ということではなく、これこれこういう理由でこの言説はそこから外れる、と検討されてあれば違和感はないのだけども、そうでないと「検討」に入る前の門でシャットアウトしたくなる。

言い換えると、wipなプロダクトを受け取っている気になるのだ。いやいや、まだできてませんよね、と。

もちろん、一般性や普遍性にまったくタッチせず、個別の話で留めておくならばそれが一番「安全度」が高いわけだが、そればかりだとつまらなさも感じる。ある条件下において言える(かもしれない)一般性について検討した方が面白いと感じる。