何をすればわからないという気持ち

そういえば、一番最初にEvernoteを使ったときは、一体このツールで何をすればいいのかわからなかったのであった。そういう感覚を忘れてはいけないな、と思う。

現代でシティーハンターはどうか

現代では「シティーハンター」の下ネタは無理だろう、みたいな話を見かけるが、そもそも非合法の始末屋で拳銃も所持しちゃっているのだから、「道徳的」に問題視されるなら、まずそちらが先な気がするがむしろそういう観点は問題視すらされていない(問題視せよ、と言いたいわけではない)。

概念的なれなれしさ

「ブレる」とか「節操がない」とは少し違う形の軽率さがあって、それって何だろうとちょっと考えている。「雑」とも違う。人間関係で言うと「なれなれしさ」に近いか。たぶんそれは何かについての思考が欠如している。たとえば、もともとの領域で精緻に境界線が引かれているものを、軽々しく踏みにじるような、そんな感じだろうか。もちろん、本当に踏みにじっているわけではなく、「そうであるかのように感じられる」という話だが。

無矛盾ではありえない

思考が無矛盾で完璧に整っているなら、何かによって方向性を整えられているのかもしれない。

構えと体

「構え」と「体(てい)」。たぶん、似たもののバリエーションだろう。

上手さの認識

自分の中である技能がすごく下手なものだとして、世界中にその人よりその技能で優れた人がいないなら、その人は上手いということになる。ここからはいろいろなことが言える。

虚勢をしぼめるタイミング

何かしらで虚勢をはったとする。それは別に構わない。ただその虚勢を引き下げるタイミングは他の誰かが教えてくれるわけではない。

「腐る経済」と「循環する消費」の違い

「腐る経済」と「循環する消費」の違いは何だろうか。両方とも、蓄積を否定するものであるが、後者は否定的に捉えられている気がする。

異世界転生の傾向

そういえば、異世界転生ではそのチート/無双がよく論じられているけども、一方で主人公が誰かを育てたり、導いたりする話もあって、その辺も合わせて論じないとちょっと足りてない気はする。

絶対に他人に迷惑をかけてはいけないという考え

他人に1mmたりとも迷惑をかけてはいけない、という規範がいきつく社会の息苦しさは相当なものだろう。あるいは、「他人は自分に迷惑をかけてはいけないが、自分がそうするのは気にしない」という別種の迷惑さが立ち上がるか、だ。

ちょっとくらい迷惑が発生したり、ちょっとくらい愚痴をいったり、ちょっとくらい非効率なことをすることを許容できないとしたら、それは社会として歪だな〜とは思います。

もちろんそれは程度の問題であり、程度の問題とは対話が必要だ、ということも意味するのですが。

自分の世界のつくりかた

「自分の世界」というのは、存外にそれへの固執を手放したときにはじめて輪郭線が見えてくるものではないか。固執が強固になればなるほど、人類補完計画的な「自分の世界」の消失につながる気がする。

外界とのインタラクションは、快・不快なもの含めてすべてで、「自分の世界」を形成する、といったような。

肯定する力、読み替える力

やっぱり「肯定する力」の不足、というのがあるのではないか。なんとなくそんな気がしてきた。

現代では、『神話の力』ならぬ『物語の力』あるいは「物語を読み替える力』が必要である。

正義の感覚

正義の感覚は嫌悪と共に立ち現れるので、いったんそのつながりを切断する。そうして切断してなお「正義」と呼べるものがありうるのかを考える。

嫌悪を正義と直結させるのではなく、かといって嫌悪(を含む感情)とまるで無関係な正義を「論理的」に構築するのでもないアプローチ。

記録の力

毎日記録をとっていてわかることもあるけども、その「毎日」が同じようなことをしているならば、同じようなことしかわからない。記録の力は、普段と違うことをしたときに、どういう違いがあるのかを考えるきっかけを提供してくれる点にこそある。

程度の問題

タイムラインはぼけ〜っと眺めていて、そのうちいくつかに反応するくらいがちょうどよくて、その反応(=インプレッション)が最大化するように調整されると、ユーザーとしては「これはちがう」となってしまう。毎日ステーキはしんどい、とかと同じように。

### 一つ上の階層に上がってはじめてわかること

その階層のことは、その階層にいるときにはわからない。一つ上の階層に上る必要がある。

これいろいろな対象について言えが、「自分の考え」がもっともよくあることで、しかもまず気がつかない。

批判的思考でメタな視点に立つことはいくらでもできるが、そうして考えていることの総体の外側には出られない。というか「外側」(一つ上の階層)が想像できない。

決定不可能性

一つの決定に個人の責任が伴うとして、その決定が極限的に大きいものであるとき、どれだけその決定が必要であっても、そこにマイナスの影響が含まれているならば、超人でもない限り決定は不可能になっていくだろう。