・正しいことを書くのは当然で、読みやすく書くのも前提であって、対象を面白く生き生きと書いてこそ力が生まれる。

・正式な意味はさておくとして、最近「マネタイズ」という言葉を聞くと、あたかも空気からお金を作り出す、みたいな雰囲気が感じられて、それが引っ掛かるのだろう。

・それにしても「それデカイ建物壊したいだけだよね」とか「カッコイいい戦艦描きたいだけだよね」と思わずつっこみたくなるものも、とことん追求されていると「いいぞ、もっとやれ!」という気持ちになる。しょーもない理屈を超越してくる。

・結局人間なんて、偏りがあって矛盾を抱え、どうしようもなく生きているものなのだから、それを純化して聖人君主に持っていこうなんて、そもそもがしんどい考え方なのだ。でも、不思議と、自分が気にくわない性質についてはそれを糾弾しても構わない(その部分には聖人君主を求めるのは当然)という気持ちになりやすいので注意が必要だろう。皆が穏やかに生きればいいという人がその直後に思いっきり否定の言葉を吐いていることがよくある。

・「コンセプチャルなミニアルバム」は「連作短編」に対応可能だろうか。

・あるツールや技法を長く使い続けないとわからないことってあって、しかし長く使い続けていると無意識領域に移行されてしまって自分では自覚できなくなること(≒わからなくなること)もあって、その辺は一筋縄ではいかない。

・アルテさんの「最初からうまく書けると思ってるの? それって結構傲慢だよね」という声が脳内に響いてきた。

・すべてを単一の原理で統一していくのは嫌気が差すのだけども、さまざまに異なる事象に「それって共通のxがありますよね」と見出していくのは好ましく感じる。その関係を図示すると同じように見えるこの二つの違いとはなんだろうか。

・頭の良い人はついつい突き詰めてしまうわけだが、現実はそんなに一足飛びに突き詰まることはないし、その「速度感」がきわめて大切だったりもする。

・一口に「一週間を振り返る」といっても、どんな対象を・どんな観点で・どのくらい深く振り返るのかはさまざまであり、「一週間を振り返る」というだけではひどく曖昧なことが多い。特に「どんな観点で」が大切で、たとえば「自分のできなさ加減をたしかめる」みたいなことになったら、そりゃ多くの人がやりたくはなくなるだろう。同じことは「目標」にも言えて、目標設定を忌み嫌う人も、その目標を「どう使うのか」が示されていないからではないか、という気がする。

・珈琲を淹れていると、「自分のために時間を使っている」という感覚がじわじわと湧いてくる。たぶん、結城先生の「ゆっくり、丁寧にやる」というのも近しいのではないか。

・「もはや学ぶことがなくなった」人からは、いずれ学ぶことはなくなる。

・Scrapboxは基本的に非同期でOKだけとも、たまの遭遇の同期だとかなり面白い。「非同期/同期でなければならない」でもなく「どちらでも使えるが差異もない」でもなく、それぞれに独自の良さがある点がGood.

・「ライフハック×ライトノベル」はやったので、「ハードボイルド×自己啓発」はどうか。

・思うに、「自由に使える」ことがまったく正しくても、「自由に使いましょう」という制約を提示しない形だと、ある磁場や重力に引きずられて、一定の傾向を持つ使い方に偏ってしまうのではないか。その意味で、「自由に使いましょう」もまた一つの不可視の制約であると言える。つまり、逆説的に「自由に使える」ことを促すきっかけとしての制約があった方がよい。

・バザール執筆法を進めていると、どこかの段階で原稿が「ガシャッ」とはまる感覚が生じる。うん、この流れだという全体的なしっくり感と言い換えてもいい。その「ガシャッ」は、常に in process において生じる。書き下ろす瞬間でもなければ、書き終えた瞬間でもない。

・in process において生じること。 in process でなければ生じないこと。それは「執筆」という行為であろう。あるプロダクトを生もうする中でのみ生じること。それによって生まれる変成。それが「本を書くこと」である。

・そのような in process に注目する視点を、「interprocess」と呼んでおくことにしよう。

・何かしらのツールなりメソッドなりに触れると、最終的にそこからフェードアウトするにせよ、その対象について考えた経験は確実に自身に蓄積される。ある複雑さが構築される。それは、物事を「なめらかに」に進めるようにはしないが、なめらかでなくても進められる力にはなる。単一の原理性において「なめらかに」進められるようになることがゴールなのではない。でこぼこさと付き合えるようになることが一つの到達なのである。よって、僕も梅棹のカード法とは違う、PoICやデジタルガーデンやZettelkastenとも違う、自分なりの(つまりでこぼこの)方法論を立てるのだ。

・「文章はリニアである」という言説も再点検した方がよさそうだ。

・贈与の連鎖か、憎悪の連鎖か。

・主体性とコントロールの感覚があり、主体性=理性(あるいは純粋理性)は暴走する可能性があり、つまりはコントロールは暴走する可能性がある。そのときに、全面的な主体性の放棄という道筋もあるだろうが、そこにオルタナティブを見出していきたい。

という感覚もまた、主体性の発揮ではあろう。

・似た話として、なんでも得意な人は、たぶん「自分はこれでいく」という感覚を確立しにくいだろう。すべてが等しい重みづけを持っているならば、何も選べないのだ。

・観察によるとご老人はだいたい偉そうぶりたいようで、そうしていると充実している感じを受ける。だとすれば、偉そうぶらせてあげる(それを抑制しない)というのは、一つのいたわりの形ではないか。結局のところ、問題はそうした老人が実質的な決定権を持っていることであって、それを切り離せば良いわけだ。そう考えると、「ご隠居」的な立ち位置はうまいバランス装置だったと言えそう。たまにゾンビになりかけの人が「俺の意識がまだ残っているうちに……」みたいなことを言って切断を促すわけだけども、それと同じで「このままいくと偉そうなことを言いたくなるだけの老人になるな」と思う判断があって引退するというのは敬意に値するのではないか。

・「多様で多量の植物が繁茂する庭み」というメタファーがおおむねすべてを示して、その解法も「ちょっとずつ整えるしかない」or「ブルドーザーですべてなかったことにする」という悲しい二択しかないことも、ここ5年くらいでわかってきた。昨日のcampの「自分の先生になる」の3つのノートも、(見ていた人はわかるけども)めちゃくちゃ時間をかけて書いた。これまでだったら、そういうのはまるっと先送りしていた。結果、庭の混乱が深まっていた。なにせ庭の手入れをほうりだして、ガーデニングショップで新しい鉢を買っているのだから。何か素晴らしいツールやメソッドがあれば、自分の庭整理の手間から解放されるとずっと思っていたが(あるいは願っていたが)、そうではないことを馬鹿みたいな回り道をして気がついた。少なくともこの点において、「自分の思い」に任せるままだと、新しい鉢だけが増えていく。だから別の力がいる。この作業は他人が強制できるものではないけども(庭仕事と同じだ)、でも、その庭仕事にどのような価値があるのかを伝えることはできるだろう。そう、僕の仕事である。

アウトライナーについて

「拡散」という言葉の意味はさておき、アウトライナーは分析と統合の両面で機能する、というのはたしかだろう。これを発散と収束に素直に置き換えられるかは要検討である。

しかしながら、アウトライナーは「根」を扱うためのツールではない、というところにこのツールが「うまく使われない」理由があるのかなと、推測。強力な切断・統合のツールであり、言い換えれば「目一杯根を伸ばしていくためのツール」ではない。ある意味で収穫のためのツール。栽培のためではなく。根を目一杯の伸ばすことを肯定するならば、管理する為の構造におくべきではない。しかし、管理する為の構造を(仮固定であっても)まったく作らないアウトライナーは、ただただひたすらにフラットに項目を書いていくものであり、アウトライナーを使う意義が著しく減少する。つまり、情報の自由な(放蕩な)成長や絡み合いを切断し、組み換えていくツールであり、しかしその組み換えの内部において自由な操作がある。ここら辺のややこしさがあるのだろう。

知のひとり仕事

ブロガー、セルフパブリッシングは「知のひとり仕事」になりがちで、執筆そのものはそれでも構わないのだけども、その手前でいかに攪拌を起こせるかが大切でないかと考えている。 「他の人に理解してもらうための文章作成」の訓練。案外それもScrapboxが役立つ(もちろん、共有ということです)。結局ここでも中間的な領域が不足している問題があるのかもしれない。

・仕事がうまく進められないときに、タスク管理を意識することでそれが解決する、というのは良いとして(それがタスク管理の定義であろう)、問題はそのタスク管理自体も簡単に実現できるわけではない、というあたり前の話がある。やるおわでも示唆した話。「タスク管理をすれば仕事がうまくいく」としても、「タスク管理がうまくいく」がセットで付いてくるわけではない。でもってこの「タスク管理の実行難易度」が極めてゼロに近いとノウハウが謳うのは常套手段。やるおわにせよ、『独学大全』にせよ、「まず、そこが難しいんじゃないか」というあたり前の反旗を翻したのが大切だと思う。そして逆に、そこをクリアしていく術があるならば、他の領域にも話を広げていける。その意味で、問題の解決を売っている人が、実は新たな問題を売っているに過ぎない、ということがよくある。「タスク管理がうまくできない」と一口にいっても、それを構成する理由は個人によってさまざまで、それぞれに対処が異なる。敷延して、それは「仕事がうまくできない」を構成する理由が多様であることも意味する。ある程度共通的なことは言えるだろうが、実践レベルでは違いの方が大きい。

・学び方、向上のさせ方を体得していないと、ある時点の自分の能力だけで勝負せざるをえず、しかも「たまたま」性に強く影響を受ける。だから実行、記録、思考の組み合わせが大切なのだと思う。「自分の得意なことで勝負する」うんぬんの言説に十全に納得しにくいのも、この点の分析が欠けているからだろう。