時間を掛けるのは大切 - 結城浩の連ツイ

夢中で嵌まり込む人は、なんだかんだで強い。

「好きこそ物の上手なれ」と「下手の横好き」の両方から考えて、好きであれば上達するとは言えないが、しかしある種の好きさが必要になることも予想できる。

でもって、それはやっぱり時間の天秤が歪んでいることなんだろう。つまり、ある行為をするときに、その時間帯効果を計算しない、ということだ。そのように計算してしまうと、たいていの物事は割に合わなくなる。特に、上達系はそうだ。初期の頃は経過時間と共に面白いように伸びていくか、踊り場を過ぎれば壁にぶつかる。

そういうときに、時間の天秤が働いてしまう人は、それ以上は追求できない。それはそれでスマートだとは思う。で、夢中に成ってしまう人は、その意味でクレバーではない。でも、だからこそ、クレバーな人ではたどり着けない場所に手を伸ばすことができる。

あと、思うには、単にそれをやっていることが好き、というだけでは上達しない。行為の結果を、より良いものにしたいという欲がないとやっぱり同じ技能レベルをうろちょろしてしまうと思う。

たとえば、文章についても、書くだけで満足だ、という人はたくさんアウトプットをするだろうけども、それで文章技能が向上するかは怪しい。もちろん、文章を書く事には慣れるだろう。えいやと気構えることなくスラスラと書けるようにはなる。でも、それは文章力の上達を意味しない。表現や構成がうまくなることを意味しない。

で、文章がうまくなるのは、やっぱり人に読まれて感想をもらったり、自分の文章を書き直したりするときだ。こういう行為は、書くことの直接的な楽しさとはずいぶん距離がある。痛みもあるし、地道な作業であることも多い。でも、そこに非直接的な喜びや楽しさが見出せる人は、時間と共に、少しずつ技能が上達していく。そんな気がしている。

技能が変わるとは、脳が変わることを意味する。そして、技能を変えるのは体験であり、もっと言えば深い体験だ。行動に自覚的になり、改善の部分を探す。それによって、体験が経験になり、脳の出力機構そのものが変容してく。ただ慣れるだけでなく、出力を生み出すためのネットワークが再編される。

そのような変化があって、人は何かが上達していくのだと思う。それにはやっぱり時間がかかる。うまくいく保証もない。だったら、やめておこう、と賢く計算できる人は、その階段を登ることはやっぱり難しいだろう。