ツイート別に、リプライを送れる人を限定できる機能がTwitterに実装された。

それって、あんまりTwitterっぽくないよな、というのが第一感だった。だって、どこから矢が飛んでくるか分からないスリリングさがTwitterの楽しみではないか(個人の感想です)。

まあ、飛んでくるのが矢ではないにせよ、フォロー・フォロワーの関係になっていない人からでも「へぇ〜、そういう考え方があるんだ。なるほど」という意見や情報を送ってもらえるのがFacebookとは違う、Twitterの楽しさであることは間違いない。

しかし、それとは別にTwitterサービスを提供しているわけでもない、単に一ユーザーでしかない人間が「Twitterっぽさ」を決められるのかどうか、ということが気になった。「Twitterっぽさ」は、Twitterを提供している会社が決定できる事柄なのではないか? 「Twitterかくありき」を決めるのはまさに彼らの仕事だろう。

一つには、「っぽさ」や「らしさ」は、集合的無意識とか共同幻想である、という考え方がありうる。Twitter社は、Twitterというツール(プラットフォーム)を作成してはいるが、そこから発生する「っぽさ」や「らしさ」はサービスの利用者の感覚のうちに発生するものである、という考え方だ。

その場合、一ユーザーが「Twitterっぽくない」という感想を抱くのは健全なことだろうし、似たような感触を覚えている人を見つけることもできそうだ。一方で、それが集合的なものでしかない以上、一ユーザーの感想の存在感は微々たるものでしかない。私がTwitterっぽくないと思っていても、より多くの人が、その方がTwitterっぽいと思っているなら、そちらに軍配があがりそうである。

らしさの多数決。

あるいは、ツールの特性を踏まえ、歴史を振り返り、他のツールとの違いの中で、Twitterらしさを立ち上げることもおそらくは可能だろう。もちろんそこで提示される「らしさ」は反証可能なものであり、絶対的なものではないにせよ、ある種の客観性は帯びているし、なにより数の暴力に負けることはない。

一方で、そうした「らしさ」が定義付けられたとしても、実際に使っているユーザーの共感を得られないならば「で?」ということになる。なにせ、ツールとは使われてナンボであり、SNSならばなおさらその傾向が強まる。

だったらやっぱり、多数のユーザーに支持されるものが「Twitterらしさ」なのだろうか。

しかし、いくら数が多くても、そのユーザーが企業の利益に貢献していないなら、結局ツールの存続は望めない。その意味で、企業の利益に貢献しているユーザーが支持する「らしさ」が本命かもしれない。

問題発言を避け、バズりに貢献し、広告なんかをちょくちょくクリックするユーザー。

まあ、私でないことは確かであろう。