ゆうびんやさんが登場しているということで、雑誌『クロワッサン』(No.1026)を購入しました。

たとえ毎日続かなくても、書けるときに書き、記録を重ねていくことも大切。日記はある程度の量がまとまらないと、読み返す楽しみを味わえません

ゆうびんやさんのやさしい語り口が、日記挫折者の心にやさしく響きますが、それはそれとして、なぜ日記はある程度の量がまとまらないと、読み返す楽しさを味わえないのだろうか、という疑問が立ち上がります。

たしかに、事実として「ある程度分量のある日記・記録」は読み返すのが楽しいものです。この分量とは単純な文字数ではなく、重ねられている日付の長さ、ということです。

今週の日記を読み返すのと、今年の日記を読み返すのでは、やっぱり後者の方が面白さは上です。それは単純にボリュームが大きいという側面と、経過した時間が長いという側面はあるでしょう。どちらも、読み物的な楽しみを増大させる機能を持ちます。特に、後者は大きければ大きいほど、書いたことを忘れているので、まっさらな気持ちで読むことができます。これが楽しいわけです。

でも、おそらくそれだけではないのでしょう。

後ろのページで、沼内晋太郎さんが以下のように述べられています。

日記には、そもそも本筋というものが存在しません。目的に向かってまとめようとしてない文章なので、むだな要素がそぎ落とされた小説、エッセイなどの作品とは違い、とりとめのないことも書かれています。そうした一見、むだに思える部分に毎日の運動の軌跡を見てとれるのだし、そこを読むたのしみがあります

記述がごく小さければ、それがとりとめないかどうかはわかりません。しかし、ある複数集まってみると、「目的に向かってまとめようとしてない」ことが浮き彫りになります。

A

だけでは、何もわかりませんが、

A い α 235

と集まれば、いかにもとりとめないことがわかります。でもって、それと同時に、「A」と「α」の類似性、つまり方向性も見えてきます。

とりとめない日常の中で、意識的・無意識的に「とりまとまってしまう」もの。発生するパターン。そういったものも見つけ出せるのです。意識的にパターン化されたものではなく、そうしようと思っていないのにパターンが生まれてしまうもの。それは、たぶん、私たちが「自分」と呼んでいるもの(あるいはそう呼ばざるを得ないもの)に深く関係しているのではないでしょうか。

定型化され、文章もフォーマットにそって書かれているブログ記事がいかにも面白くないのとは逆の面白さが、ここにはあるわけです。いろとりどりの、少しずつ異なる花びらが、大きな「花」を作る美しさと共に。